「悪さ」の配分と面白いトークイベントの関係
日曜の「人文知の現場」を考えるトークイベントなるものがあった。来てくださった方ありがとうございました! まだ配信アーカイブもあるよ。
私は第一部第三部に出たのだが、14時から21時まで休憩をはさみつつぶっ通しでいろんな人がしゃべるイベント(しかも関西)に、ここまで多くの方が集まって長い時間聞いてくださったこと自体、とても感動したし驚いた。150人くらいの方が来てくれてたらしい。びっくりである。関西で! しかも客層がわりと多様かつ若い人もたくさんいて、男女比も半々くらいだった。嬉しかった。
で、このトークイベントを通していろいろ考えたことはあるのでnoteに書いていきたい……のだが、ひとつは「面白いトークイベントとは何か」という話である。
書店を中心に、本の書き手がトークイベントをする文化がメジャーになって、10年以上経ったのだろうか。もちろんその前から大学でトークイベントを開催したり、鼎談や対談は人文の華ではあるので、この10年に限った動きではない。が、それでもやっぱりトークイベントは増えているように感じる。
私も2017年デビュー組として「配信に耐え得るトークイベントとは何か」をずっと模索してきた……のだが、今回これだけ登壇者が多くて、自分が出たパートに関して「割と面白かったのでは!」と思えた理由がたしかにあったように感じる。
それは、「ヒールになるつもりで来たよ!」と言っている登壇者が割といらっしゃったことである。
たとえば、工藤郁子さんは第一部の最初で明確に、冗談半分だろうが、「この場におけるヒールだよ!笑」みたいな物言いをしていたように思う。もちろん工藤さんなりの冗談なのだが、それでも、工藤さんの自己紹介によって観客にいた人々が「あ、そういう対立軸がここには存在するんだ」と理解できた側面は大きかったのではないだろうか。今回の第一部でいえば「そもそも人文のなかには、ビジネスや資本主義に対してどう向き合っているのか、みたいな軸が存在するんだな」とぼんやり理解できるように思う。
……これって案外大切で、そもそも普通に生きていたら資本主義反対論者なんて存在していると思うはずがない。資本主義なんて自明すぎるだろと感じてしまう。が、そこから「そもそも」を疑うのが人文でもあるわけで。そういうふうに、登壇者同士のそもそものスタンスの差異を観客に理解してもらったうえで、生産的な議論をしたほうが、伝わるものも大きいはずである。
しかしこういうスタンスの差異を見せることは、ちょっとだけ「この場における悪役はこっちかもよ」というスタンスを誰かがとらないとうまくいかない。
つまり、登壇者がみんな正義の側に立っていては、noteやyoutubeで情報を提供するような場と変わらなくなってしまう。面白いトークイベントすなわち「お金払ってここにきてよかった」と思える対談や鼎談や座談会とは、登壇者同士の対立軸が見えつつそれが壊される瞬間も見える、ドライブ感――関係性の対立軸とその秩序崩壊が見える瞬間にあるのではないだろうか。
それこそが「ここにしかない」ものを生み出すのではないか。
が、そんな対立を、喧嘩にならずに、やるのが重要である。トークイベント後はみんなもっと仲良くなっていることが必要なんだから。そのためにはやっぱり「悪役」を「あえて」引き受ける役割がちょっとずつみんなに必要なのではないだろうか。
第三部の令和人文主義騒動編(!)についても、実は同じことが言える。
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