「Tシャツが乾くまで」夫に起きた変化の理由
愛する夫がわたしに優しい。夫に失礼のないように言っておく、普段から優しいけれど、なんだかちょっといつもと違う。とことん優しい。裏があるような感じではない。いつもの何倍かは優しい。何かしらを伝えよう、言葉にしようとしてくれている。知らない誰かを見るように夫がわたしを「見ようとしている」何が起きたのかしら。わたし何かしたのかしら。じっくりと振り返ってみて、思い当たることがあった。それしかないような気がする。
「Tシャツが乾くまで」
夫に起きた変化の理由は多分あれだ。
あのドラマを夫婦で一緒に観ているのである。夫はわたしに付き合って観ていただけであったが、あのドラマの夫婦のすれ違いをみた。さらにわたしは、初回から最新回までもうすでに四回五回と繰り返し流している。夫は自宅で仕事をしている。わたしがリビングで作業しながら流しっぱなしにしている「Tシャツが乾くまで」とそれを流す「わたしという妻」を目にしている。わたしの考察も聞き楽しんでいる姿を知っている。わたしの変化に敏感な夫である。そしていつにもまして優しくなった、なるほど。
夫婦の避けきれないすれ違い。乾かない洗濯物。気遣いと気疲れ。コインランドリーという家事の延長線上にある場所。完璧な言い訳になる出会いの場と、そこでの妻や夫の知らなかった一面。知ろうとしていなかった一面。見ようとしなければ見えない一面。
生活をスムーズに終える為に、なんとなくで増える隠し事。秘めた心を話しやすい他人。迷惑とは。ありがとうとは。生活を共にする夫婦の優しいはずの嘘と夫婦を維持する為に必要だった逃げ場所。適切な距離。ネットフリックスを流しっぱなしにしながら、楽しみつつ考えた。
「洗い物やっとくね」「ゆっくりしてなよ」「洗濯物多いね、手伝うよ」「いつもありがとう」「もっといい暮らしさせてやりたいなあ」「今日はどうしてた?」「少しは好きなもの買ったら」「どこかでかけようか」「ゆっくり寝るんだよ」「お土産買ってきたよ」嬉しいけど少しだけ心配になる。
夫がいつにもまして優しくなった。なってしまった。あのドラマがあまりにも、愛し合って寄り添ってみえた夫婦の心の裏をえぐり出し、わたしたち夫婦に同時にみせてしまったからかもしれない。
夫は大らかな性格で、いつでも朗らかに笑っている。そうかと思うとわたしが見落としていた大切なことに気配りする繊細さもある。わたしのことをちゃんづけで呼んで、長い話を興味を持ってじっくり聴いてくれる。
のろけようと思えばいくらでも止まらなくなる存在である。そんな仲良しの夫婦だからこそ、距離が近くなりすぎてうまくいかないような日もある。近すぎるのもまた息苦しいもの。ぶつかったり遠ざかったりしながら、夫婦はダンスをするように関係を上達させる。洗練させる。不器用につぎはぎだらけで家族を紡いできたわたしたち夫婦にとって、あのドラマはいい教材だ。
そして、わたしたち夫婦は大河ドラマ「豊臣兄弟」も毎週楽しみにして、一緒に観ている。夫が「Tシャツが乾くまで」を観たあとに、自然とわたしにいつもよりもっと優しくなってしまうように、わたしは大河ドラマ、豊臣兄弟を観たあとは、夫にいつもよりもっともっと優しくなっている気がする。
愛する夫よ、男でいることが、苦しくはないか?ひとりで背負い込んでいるのではないか?苦しみがあるのなら、少しわけてはくれまいかと、思ってしまう。
働く夫は、毎日毎日、戦から帰ってきたように疲れている。家族を背負っているからこそ、耐えることだらけだろう。そんな夫の背中が物語るものを、言葉ではなく感じてしまう。大河ドラマを観ていて、武士と夫が重なってしまう。
「おつかれさま、いつもお仕事ありがとう」「ゆっくり休んでね」なるべく夫の好物を作り、おしゃべりをする。夫の好きな話題をふる。夫のことを笑わせる。夫を新鮮な気持ちで見ようとしてみる。意外な面を知ることもある。初心に帰って夫に接したい。家族である遠慮のなさと、家族だからこその思いやりを、夫婦って思い通りにいかないな、というもどかしさと共に加減する。
「Tシャツが乾くまで」が我が家にもたらした小さな変化は、あちこちで起こっているはずだ。大河ドラマでも似たようなことがあるかもしれない。夫婦でなんらかの作品を共有することが、こんなに愉快な結果を生む。
ドラマでも映画でも、小説でも、ちょっと一緒に味わってみる。時には子らも交えて、時には夫婦ふたりしみじみと。直接的な言葉のやり取りではなく、ドラマの中で誰かが言ったセリフが、夫婦の間を行き来する。そうして気がつけば、生活に変化が起こることもある。おもしろいと思う。愉快だと思う。
最終回をどんな気持ちで観ればいいのか。なにも予想はしていない。ただ、あの夫婦がどんなかたちでもいいから幸せになってくれたらと願っている。乾燥フィルターが破れて別れようと言ったさっちゃんの気持ちもよくわかる。ふたりとも親の呪縛が重くのしかかって、解けていないのだろうと推測もできる。ああなってしまうのはわかる。致し方なく幼子を連れて離婚したことのあるわたし、十二年前に再婚した今のわたしには少しだけわかる気がする。安定した幸せに慣れていないのだ。ひとりになって味わう寂しさならよく知ってるのだ。
あそこまでいってやっと新しい夫婦の建設が始まるのではないのか。なんども別れたいと思っても、相手を幸せにしたいと思った時の自分に、立ち返ってやり直していくのではないのか。夫婦は問題を抱えたままで続いていくと思いたい。
好きな人フィルターが破れて修繕不可能か?と思ったところから、家族も夫婦も、他人同士を超えて、親密な間柄になれると信じている。いつにもまして優しくなった夫とわたしが、息切れて疲れてしまわないように、微妙な距離のバランスをとっていきたい。
「Tシャツが乾くまで」が描こうとしているように、夫婦とはそれ自体が奥深き生身の生き物。親密さは日々変動制だ。我が家の好きな人フィルターは何度破れても、切った指先が治るように、新しい皮膚ができて復活していくものだから。
少し近づく、疲れては離れる、時には忘れる、ハッとして思い出す、たまには黙る、優しくしてみる、猛烈に腹が立つ、落ち込んで謝る、あらためて愛する、変なところを知ってるけど、知らないところはもっとある。わたしだけが知っているところがちょっとだけあればいい。その人の一部でいい。今週末の「Tシャツが乾くまで」終わってしまうのが寂しいから、こんなことを書いてしまった。

