見出し画像

『闇に生きる者たち』第6話 潜入  (エンタメ小説)

第6話 潜入
 
都心のホテル、その上階にあるレストラン。
 夜景を一望できる窓際に、十人掛けの大きなテーブルが用意されていた。
 席についているのは、三十代の男女が四人ずつ。
 男性側は、どこか垢抜けない雰囲気の四人だった。女性と目を合わせることも少なく、先ほどから仲間同士でゲームやパソコンの話ばかりしている。
 女性側も、盛り上がっているとは言い難い。
 全員の胸元には、下の名前を書いた名札がつけられていた。
 理沙の名札には『リサ』。
 隣に座る女性の名札には『ヨーコ』と書かれている。
 ヨーコは、真心商事で山崎五郎の秘書を務める女性だった。
 理沙は目の前の男性のグラスへ酒を注いだ。
「そろそろ乾杯しましょう。アラサー合コンに、乾杯!」
 明るくグラスを掲げたが、男性たちの反応は鈍い。
「……乾杯」
 小さな声が重なり、グラスが遠慮がちに触れ合った。
「せっかくだから、思いきり飲みましょう。飲み放題だからね」
 理沙は笑顔を崩さず、ヨーコのグラスに焼酎を注いだ。
 氷の入ったグラスが、たちまち満たされていく。
「私、そんなに飲めないんだけど……」
 ヨーコは困ったように笑った。
 その間にも料理が運ばれてくる。しかし、席全体の会話は一向に盛り上がらない。
 男性たちは、いつの間にか自分たちだけの話へ戻っている。
 向かい側に座る女性二人も、仕事や友人の噂話に夢中だった。
 誰も理沙たちの会話を聞いていない。
 理沙はヨーコの耳元へ顔を寄せた。
「ねえ、この中だったら誰がいい?」
 ヨーコは口に含んだ酒を吹き出しかけた。
「やめてください」
「寂しいよね、お互い。今日は飲もう」
 理沙はそう言いながら、グラスへ酒を足した。
 ヨーコは目の前の四人を順番に見たあと、諦めたようにグラスを手に取った。
 一気に飲み干す。
「ヨッシャ!」
 突然の大声に、男性たちが会話を止めた。
 四人の顔に、わずかな戸惑いが浮かぶ。
 ヨーコは気づいていない。
「もう一杯!」
 差し出されたグラスへ、理沙は再び酒を注いだ。
 ヨーコはそれも飲み干す。
 理沙は笑っていた。
 だが、その目だけは酔っていなかった。
          *
 宴会が終わる頃には、ヨーコは一人で歩けないほど酔っていた。
 ホテルの廊下を、理沙がその肩を支えながら進んでいく。
 ヨーコの足元はおぼつかない。何度も壁へぶつかりそうになり、そのたびに理沙が体を引き戻した。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ……全然、平気……」
 呂律が回っていない。
「部屋、もうすぐだからね」
「私ねえ……」
 ヨーコが理沙の肩にもたれかかった。
「会長室、入れるんだ」
「へえ、すごいね」
 理沙は興味のないふりをして相づちを打った。
「秘密、知ってる……」
「何? 秘密って」
 ヨーコは周囲を警戒するように顔を動かした。しかし、半分閉じた目では、何も見えていない。
「水虫」
「え?」
「会長、水虫。薬、見たから」
 ヨーコが楽しそうに笑う。
 理沙も笑いを合わせた。
「会長室って、どうやって入るの?」
「暗証番号、知ってるよ」
「そんなこと言っていいの?」
 ヨーコは理沙に顔を近づけ、重大な秘密を打ち明けるように囁いた。
「五、九、六、三」
「五九六三?」
「ご苦労さん。笑っちゃうでしょ」
 ヨーコは声を上げて笑った。
 理沙も笑った。
 しかし、その四桁を頭の中で静かに反復していた。
 五九六三。
 ご苦労さん。
 二人は五一五号室の前で止まった。
 理沙はヨーコのバッグからカードキーを取り出し、読み取り部分へかざした。
 電子音が鳴り、ランプが緑に変わる。
 理沙はドアを開け、ヨーコを部屋の中へ連れて入った。
          *
 ヨーコをベッドへ寝かせると、数秒もしないうちに鼾が聞こえ始めた。
「ヨーコ?」
 理沙は小さく呼びかけた。
 返事はない。
 肩を軽く叩いても、目を覚まさなかった。
 理沙の表情から笑みが消えた。
 ベッドの脇に置かれたヨーコのバッグを開ける。
 財布。化粧ポーチ。スマートフォン。
 その下から、真心商事の社員証が出てきた。
 理沙はそれを手に取り、顔写真と名前を確認する。
『秘書室 荒川洋子』
 社員証を自分のバッグへしまった。
「ゆっくりお休み」
 眠り続けるヨーコへそう告げ、理沙は部屋を出た。
          *
 翌朝。
 五一五号室のカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいた。
 ヨーコは昨夜の服を着たまま、ベッドで眠っている。
 枕元のスマートフォンから、目覚ましのアラームが鳴り続けていた。
 だが、ヨーコは目を覚まさない。
 床に置かれたバッグの口は、開いたままだった。
          *
 真心商事本社ビルから少し離れた路上に、白いワンボックスカーが止まっていた。
 運転席には卓也。
 双眼鏡を構え、ビルの正面玄関を監視している。
 助手席では、美咲がノートパソコンを開いていた。後部には複数の通信機器が設置され、何本ものケーブルが複雑につながれている。
「正面、異常なし」
 卓也が言った。
 美咲は画面から顔を上げない。
「理沙が入ったら、周囲の動きも見て」
「わかってる」
 二人の声にも、いつもの軽さはなかった。
          *
 午前七時五十分。
 真心商事のエントランスには、まだ出勤する社員の姿が少なかった。
 警備員が一人、正面で立哨している。
「おはようございます」
 ライトグレーのスーツを着た女性が、軽く会釈して通り過ぎた。
 ウェーブのかかった髪。
 黒縁眼鏡。
 普段より濃い化粧。
 体形や歩き方まで荒川洋子をまねていたが、その女性は理沙だった。
 社員証をゲートへかざす。
 短い電子音が鳴り、扉が開いた。
 警備員に呼び止められることはなかった。
 理沙は歩調を変えず、エレベーターへ向かった。
 扉が開き、中へ乗り込む。
 閉じる直前まで平静を装っていたが、扉が完全に閉まった瞬間、静かに息を吐いた。
          *
 上昇するエレベーターの中で、理沙は耳につけた小型無線機へ触れた。
『これから社員が続々と出社してくるわよ』
 美咲の声が聞こえる。
「わかってる」
 階数表示が上がっていく。
 二十階。
 二十五階。
 三十階。
 理沙は正面の扉を見つめたまま、呼吸を整えた。
 到着を知らせる電子音が鳴る。
 扉が開いた。
 理沙は誰もいない廊下へ足を踏み出した。
 厚い絨毯が、靴音を吸収する。
 廊下の先に、会長室と表示された扉があった。その隣には秘書室がある。
 理沙は立ち止まり、周囲を確認した。
 誰もいない。
 秘書の社員証を読み取り機へかざす。
 ランプが点滅した。
 続いて、暗証番号の入力画面が表示される。
 理沙は迷わず数字を押した。
 五、九、六、三。
 解錠音が鳴る。
 レバーハンドルを下げ、会長室へ入った。
 扉を閉めた直後、卓也の切迫した声が耳に飛び込んできた。
『やばい。会長の車が地下駐車場に入った』
 理沙の動きが止まった。
『理沙、急いで。予定より早い』
 美咲の声にも焦りがにじむ。
 理沙はデスクへ駆け寄り、パソコンの電源を入れた。
 起動までの数秒が、異様に長く感じられる。
 画面が立ち上がる。
 理沙はバッグからUSBメモリーを取り出し、端子へ差し込んだ。
 接続を示す表示が現れる。
「美咲、入った」
『つながった。そのまま触らないで』
          *
 白いワンボックスカーの中で、美咲の指が猛烈な速さでキーボードを叩いていた。
 パソコンの画面に、会長室の端末から送られてくるデータが次々と表示される。
 隣では卓也が双眼鏡をのぞいていた。
「会長、エントランスにいる。警備員と何か話してる」
『あと何分?』
 無線から理沙の声が聞こえる。
「二分」
 美咲が答えた。
『長すぎる』
「これ以上は縮められない」
 卓也が双眼鏡を動かした。
「会長、一階のエレベーターに乗った」
 美咲が画面を見る。
「残り五十パーセント。まだ抜かないで」
          *
 会長室。
 理沙はパソコン画面の転送表示を見つめていた。
 五十パーセント。
 数字が少しずつ増えていく。
 耳の奥で、自分の心臓が鳴っている。
「会長は?」
『上昇中』
 卓也の声が返る。
「残り十パーセント」
『会長、三十二階に着いた』
 理沙は入口を振り返った。
 扉の向こうからは、まだ何も聞こえない。
『転送、九十五パーセント』
「早く……」
 九十六。
「早く」
 九十七。
「早く……まだ五パーセント」
『捕まったら全部終わりよ』
 美咲の声と同時に、会長室の扉から解錠音がした。
 理沙は反射的にUSBメモリーを抜いた。
 画面に赤い文字が表示される。
『転送失敗』
 理沙はデスクを離れ、隣の秘書室へ飛び込んだ。
 扉を静かに閉めた瞬間、会長室の入口が開いた。
 山崎五郎が入ってくる。
 理沙は薄い壁一枚を隔てた場所で息を殺した。
 足音がデスクへ近づいていく。
 山崎は、電源の入ったパソコンを見た。
 画面には、九十八パーセントで止まった転送表示。
 その下に『転送失敗』の文字が残っている。
 山崎の手が、デスクを激しく叩いた。
 鈍い音が部屋に響いた。
 秘書室に隠れた理沙は、唇を固く結んだ。
          *
 ホテルの五一五号室。
 鳴り続けるアラームの中で、ヨーコがようやく目を覚ました。
「……頭、痛い」
 額を押さえながら、ゆっくりと起き上がる。
 床に置かれたバッグへ手を伸ばし、中を探った。
 財布。
 化粧ポーチ。
 スマートフォン。
 あるはずの社員証がない。
 ヨーコの眠気が、一瞬で消えた。
          *
 山崎は会長室の社内電話を取り、短い番号を押した。
「誰も外に出すな」
 返事を待たずに受話器を置く。
 そして、足早に会長室を出ていった。
 秘書室の中で、理沙はその足音が遠ざかるのを待った。
「美咲、封鎖された」
『こっちでも確認した』
「逃げ道を探して」
 理沙は秘書室から廊下へ出た。
 エレベーターの表示を見る。
 一基が下へ向かっている。
 山崎が一階へ戻ったのだ。
 別の一基の扉が開く。
 理沙は中へ入り、三階のボタンを押した。
          *
 一階のエントランスでは、四人の私服警備員と二人の制服警備員が動き始めていた。
 出入口を封鎖し、出勤してきた社員まで足止めしている。
「何があったんですか?」
「いつ入れるんです?」
 事情を知らない社員たちが次々と集まり、エントランスは急速に混雑していった。
 正面玄関には私服警備員が二人と、制服警備員が一人。
 エレベーター前にも三人が待機している。
 扉が開き、山崎五郎が姿を現した。
「全員、社員証を確認しろ」
 低い声だった。
 だが、その表情には明らかな怒りが浮かんでいた。
          *
 理沙は三階でエレベーターを降りた。
 吹き抜けの手すり越しに、一階の様子を見下ろす。
 エントランスには、出勤してきた社員があふれていた。
 警備員たちが出口を塞いでいる。
 その中央に山崎五郎が立ち、周囲を見回していた。
 理沙はすぐに顔を引っ込めた。
「美咲、逃げ道。今、三階」
『待って』
 理沙は廊下を急ぎながら、背後を確認した。
 エレベーターが動き始める。
 誰かが上がってきていた。
          *
 車内で、美咲はビルの平面図を画面へ表示させた。
 正面玄関。
 地下駐車場。
 搬入口。
 どこにも警備員が配置されている。
「一階の裏に非常口がある。三階の東側階段を使って」
『わかった』
 卓也は首を横に振った。
「無理だ。完全に囲まれた」
『大丈夫』
 理沙の声は落ち着いていた。
          *
 三階の廊下を進んだ理沙の前に、赤い火災警報器があった。
 理沙は一瞬も迷わなかった。
 手を伸ばし、作動させる。
 激しい警報音が館内に響き渡った。
『火災が発生しました。速やかに避難してください』
 機械音声が繰り返される。
 一階のエントランスにいた社員たちが一斉にざわめいた。
「火事だ!」
「外へ出ろ!」
 警備員が制止する間もなく、人の流れが出口へ殺到する。
 上階からも社員たちが階段を使って次々と下りてきた。
 封鎖は崩れた。
 山崎は避難する社員の顔を一人ずつ見ながら、侵入者を探した。
 その視線が三階へ向く。
 吹き抜けの向こうに、ライトグレーのスーツを着た女が立っていた。
 理沙が振り返る。
 距離はあった。
 変装もしている。
 それでも、二人の目は確かに合った。
 山崎の表情が変わる。
「山口……」
 理沙は踵を返し、避難する社員の列へ紛れ込んだ。
「止めろ!」
 山崎の怒声が響く。
 しかし警報音と社員たちの叫び声にかき消される。
 理沙は流れに逆らわず、階段を一階まで下りた。裏手へ向かう避難者たちと一緒に非常口を抜ける。
 外へ出た瞬間、白いワンボックスカーが滑り込んできた。
 横のドアが開く。
「理沙!」
 卓也の声。
 理沙は走った。
 背後で非常口が開き、警備員が姿を現す。
 理沙は車内へ飛び込んだ。
「出して!」
 ドアが閉まるより早く、卓也がアクセルを踏み込んだ。
 白いワンボックスカーは急加速し、ビルの裏手から走り去った。
          *
 理沙は荒い息を整えながら、変装用の眼鏡を外した。
「データは?」
 美咲はパソコンの画面を見たまま、首を横に振った。
「転送は失敗。USBの中身も壊れてる」
「全部、無駄だったの?」
「一つだけ見えた」
 美咲が保存した画像を開く。
「転送中に画面をキャプチャできた」
 そこには、一つのフォルダー名が映っていた。
『那須医療施設・適合者名簿』
 理沙は画面を見つめた。
「那須……医療施設」
「適合者って、何の適合者だ?」
 卓也が運転しながら尋ねる。
 誰も答えられなかった。
 しかし、それが真心商事の裏側へつながる最初の手がかりであることは、間違いなかった。
          *
 真心商事の警備室では、会長室前の防犯映像が再生されていた。
 ライトグレーのスーツ。
 ウェーブのかかった髪。
 黒縁眼鏡。
 山崎は画面の女をじっと見つめていた。
「外のカメラは?」
 警備員が映像を切り替える。
 ビルの裏手。
 非常口から女が出てくる。
 その直後、白いワンボックスカーが現れた。
 女が飛び乗り、車は走り去る。
「ナンバーはわかるか」
 映像が拡大される。
 荒い画像の中に、車両のナンバーが浮かび上がった。
「この車の所有者を調べろ」
「わかりました」
 私服警備員はすぐに携帯電話を取り出し、どこかへ連絡を入れた。
 山崎は壁へ拳を叩きつけた。
 衝撃音が、警備室に響く。
 その場にいた全員が黙り込んだ。
 山崎は怒りを押し殺しながら、画面の女を睨みつけた。
「犯人は女だ」
 その顔から、家族の前で見せていた穏やかさは完全に消えていた。

つづき
第7話
https://note.com/ohno3819/n/n84183f7b7d00


いいなと思ったら応援しよう!