見出し画像

「土器しかない」という政治家が見落としているもの――博物館・人文知・国民統合という統治の基礎条件



導入 繰り返される言葉

「土器しかないような博物館に価値があるのか」という趣旨の言葉を、特定の発言者や個別施設の評価から切り離して考える。この種の言葉は珍しくない。2017年4月、当時の地方創生担当大臣は文化財観光をめぐるセミナーで、観光マインドを持たない学芸員を「一番のがん」と呼び、各地の博物館関係者から批判を受けた。[1] 2024年7月、奈良県知事は県立民俗博物館の収蔵問題について、文化財に指定されていない同種の農機具を保管し続ける意味がどこにあるのかという議論から始める必要があり、価値のあるものだけを残して廃棄処分することも検討せざるを得ないと述べた。[2] これに対して日本民具学会は声明を出し、民具の価値は一点の物にあるのではなく「群としての民具」を通して地域社会の在り方を明らかにできる点にあると反論した。[3]

「土器しかない」「同じ農機具ばかり」「観光マインドがない」。表現は異なるが、同じ構造と含意をもつ。博物館の価値を、発言者が即座に理解できる効用、すなわち来館者にとっての見栄えや観光収入に還元し、収集・保存・研究・教育という機能を視野から外している。しかもこれらの言葉は、私人の感想ではなく、予算と制度を動かす立場にある者の言葉として発せられている。

この構造は個人の失言にとどまらず、制度の側にも現れつつある。2026年2月27日、文部科学省は国立美術館、国立文化財機構、国立科学博物館の次期中期目標(2026〜2030年度)を策定し、展示事業に対する自己収入の数値目標を設定した。文化庁は、展示収入が4割未満となることだけで直ちに再編の対象となるわけではなく、再編は閉館を想定したものでもないと説明し、収集・保管、教育普及、調査研究の三業務には国費を措置するとしている。[4] しかしこの説明自体が、博物館の四つの業務のうち展示だけを収支で測るという枠組みを前提にしている。同年3月31日には「博物館の設置及び運営上の望ましい基準」が全部改正され、資料管理の選択肢として交換、譲渡、貸与、返却、廃棄等が明記された。文化庁の通知と解説によれば、この改正は継承を原則としつつ、廃棄を他の手段を検討した上でなおやむを得ない場合の慎重な例外として位置づけるものである。[5] 背景には収蔵庫の逼迫がある。日本博物館協会の2024年度調査(速報版、2026年3月公表)では、本館収蔵庫が9割以上埋まっている館が39.3%、入りきらない資料を抱える館が24.4%、合わせて63.7%に達した。[6]

つまり「土器しかない」という言葉は、いま日本で、予算配分と資料廃棄という具体的な政策決定に変換されうる位置にある。問題は土器の学術的価値を知らないことだけではない。国家行政がどのような前提の上で作動しているかについての理解が欠けている可能性である。

国家は、税法、予算、官僚制、警察、裁判所、防衛組織といった制度の総和だけでは作動しない。見知らぬ他者を同じ政治共同体の成員として扱い、一定の負担を引き受け、共通の手続による決定に従い、現在の利益だけでは回収できないものを将来世代へ渡すという継続的な協力が必要になる。法はその協力を強制できる。しかし、巨大で複雑な近代国家の全活動を、個々の行為に対する監視と制裁だけで維持することはできない。法の正統性、制度への信頼、相互性の規範、政治共同体への帰属意識が、強制を補完する。[7]

歴史、文化、教育、博物館を含む人文的制度は、国民を単一の物語へ動員する宣伝装置ではない。異質な人々が共有できる参照枠を保存し、検証し、異論に開き、世代を越えて更新することによって、政治共同体の自己理解を維持するインフラの一部である。この統合的機能が弱れば、社会保障、徴税、民主的統治、危機対応、国防を支える連帯と正統性も無関係ではいられない。そして政治家自身の権威も、その政治共同体と制度への承認の上にしか成立しない。

ただし、「博物館が一館閉じれば国家が崩壊する」という単純な因果命題ではない。国民統合は多数の制度、慣行、経験によって形成される。博物館はその一部であり、効果は施設ごとに異なる。強い国民意識が常に福祉国家や民主主義を強めるという実証的合意も存在せず、国民意識の内容によっては排外主義や福祉ショーヴィニズムを強めることがある。[8] 必要なのは、国民統合の必要性を認めながら、それを同質化や神話化と区別することである。

1 国家行政には「協力の余剰」が必要である

国家を強制装置として捉える見方には、歴史社会学上の根拠がある。マックス・ウェーバーは近代国家を、一定の領域内で正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体と定義した。[9] チャールズ・ティリーは、ヨーロッパの国家形成を戦争遂行、資源抽出、保護、国家形成の相互作用として分析し、国家を保護料を取り立てる組織になぞらえた。[10] 国家が徴税し、強制力を集中し、領域を統治してきた歴史を考えれば、国家の物理的基礎を軽視することはできない。

しかし、成立した国家が日常的に作動する条件は、強制力の存在だけでは説明できない。トム・R・タイラーの法遵守研究は、人々が法に従う理由を制裁回避だけに還元せず、権威の正統性や手続的公正の認識が自発的遵守に関係することを示した。[11] マーガレット・レヴィは、統治者が歳入を最大化しようとする際に、監視と制裁の費用を下げるために「準自発的遵守」に依存せざるを得ないと論じた。準自発的というのは、従わなければ制裁があるという意味で純粋に自発的ではないが、監視されなくても大半の人が従うという意味で自発的だからである。この遵守は、統治者が約束を守るという予期と、他の市民も同様に負担しているという予期の二つに条件づけられる。[12] レヴィはのちにこれを「条件付き同意」として一般化し、政府の信頼性、手続の公正さ、他者の遵守についての認識が市民の同意を左右すると論じた。[13]

ここで生じる協力を「協力の余剰」と呼ぶ。観察される協力の総量を $${C}$$、監視確率と制裁の大きさから合理的に予測される協力の水準を $${C_{e}}$$ とすれば、余剰は次のように定義できる。

$$
S = C - C_{e}
$$

$${S}$$ が正であるとき、国家は強制によって直接生み出される以上の協力を得ている。この余剰は、善良さという心理的美徳だけではない。国家の実務能力を構成する資源である。税を払う、裁判の不利な決定にも従う、災害時の制約を受け入れる、公共財のために負担する、選挙で敗れた側も手続の結果を暫定的に受け入れる。こうした行為が全面的に強制に依存しないことが、制度を安定させる。ブレイスウェイトとレヴィの編著が、税、立法・司法判断の受容、社会政策、軍事目的への支持までを政府と市民の信頼関係の問題として扱うのは、このためである。[14]

2 税制は「他者も負担する」という予期に依存する

余剰の存在を最も明瞭に示すのは税である。アリンガムとサンドモの古典的モデルでは、所得 $${W}$$ をもつ納税者が申告所得 $${X}$$ を選ぶ。税率を $${\theta}$$、監査確率を $${p}$$、監査時に未申告所得 $${W - X}$$ に課される罰則率を $${\pi}$$ とすれば、納税者は次の期待効用を最大化する。[15]

$$
E[U] = (1 - p),U(W - \theta X) + p,U\bigl(W - \theta X - \pi (W - X)\bigr)
$$

このモデルでは、全額申告が最適になるのは $${p\pi \geq \theta}$$ のときに限られる。監査確率と罰則率の積が税率を下回るなら、所得の一部を隠すことが期待効用を高める。多くの国で監査確率は数パーセント程度であり、この条件を満たすには罰則率が税率の数十倍に達しなければならない。現実の制度はそのような罰則を課していないにもかかわらず、観察される遵守率は、モデルが予測する水準を大幅に上回る。アルム、マクレランド、シュルツはこの乖離を「なぜ人々は税を払うのか」という問いとして定式化した。[16] 以後の税行動研究は、罰則と監査だけでは説明できない残余を「税のモラル」として扱い、政府への信頼、手続の公正、他者の遵守についての認識、社会規範がそれを構成することを示してきた。[17]

キルヒラーらの「滑りやすい坂」の枠組みは、当局の権力による強制的遵守と、当局への信頼による自発的遵守を区別する。複数国での研究でも、高い信頼は自発的な納税遵守と結びつくことが確認されている。[18] さらに公共財実験は、多くの人が「他者が協力するなら自分も協力する」という条件付き協力者であることを示し、税のモラルについても、他の納税者が正直に申告していると信じる人ほど自らも遵守する傾向が報告されている。[19] OECDも、税務執行だけでなく、信頼、公正、納付の容易さを通じた準自発的遵守の重要性を整理している。[20]

国民統合は、ここで「愛国心が強ければ税を払う」という単純な変数ではない。納税者が税を外部の権力による収奪とだけ見るのか、自分も構成員である共同制度への拠出と理解できるのかという意味づけの条件に関わる。制度への信頼が失われ、他の集団はただ乗りしている、自分たちだけが損をしている、国家は自分たちを代表していない、という認識が広がれば、協力は $${C_{e}}$$ に近い水準まで落ち込み、税制の正統性は損なわれる。税率、課税ベース、徴収技術は財政制度の直接的構成要素である。しかし、その制度を社会がどの程度自発的に支えるかは、公正、信頼、帰属、相互性といった意味の世界に接続されている。国家財政は数字で運営されるが、数字への服従を可能にするのは数字だけではない。[21]

3 再分配は、見知らぬ他者を「完全な他人」にしない制度である

社会保障制度は、国民統合と行政能力の関係を最も見えやすくする。再分配は、現在の自分と直接の交換関係にない他者へ資源を移転する。高所得者から低所得者へ、健康な人から病気の人へ、現役世代から高齢者へ、子どものいない世帯から教育制度へ、災害を免れた地域から被災地域へと負担が移る。個々の移転について、支払者と受益者が顔見知りである必要はない。

デイヴィッド・ミラーは、近代国家のように巨大で匿名的な社会において、共通のナショナル・アイデンティティが連帯を支え、集合行為、再分配的正義、熟議的民主主義を可能にしうると論じた。[22] ヤエル・タミールも、自由と個人の自律を重視する自由主義と、帰属、忠誠、連帯を重視するナショナルな結合が必ずしも両立不能ではないと論じてきた。[23] T・H・マーシャルの市民権論は、市民的権利、政治的権利に加えて社会的権利を近代市民権の構成要素として捉え、社会保障が階級の分断を共通の市民資格の下に包摂する過程を描いた。[24]

もっとも、この理論をそのまま実証的事実と扱うことはできない。カナダのデータを用いたジョンストン、バンティング、キムリッカ、ソロカは、国民的アイデンティティが福祉国家支持と一定の関係を持つ一方、その作用は自由主義的ナショナリズムが想定するより狭く、国ごとの歴史やナショナル・ナラティブに依存すると結論づけた。[25] 29のヨーロッパ諸国を分析したライトとリースケンスは、国民的アイデンティティが一般的な再分配支持を一様に強めるとはいえず、移民を排除する福祉ショーヴィニズムとの関係も示した。[26] ロススタインとアスレイナーは因果の向きを逆に見て、平等な普遍的制度が社会的信頼を生み、腐敗と不平等が信頼を破壊するという経路を強調した。[27] バンティングとキムリッカの編著は、多様化する社会における連帯を、所与の感情ではなく政治的に構築されるものとして扱い、包摂的な国民的物語と制度設計がその源泉になりうると論じている。[28]

これらの知見は、国民統合論を捨てる理由ではなく、何を統合と呼ぶべきかを精密にする理由である。必要なのは「同じ血統の者だから助ける」という閉鎖的連帯ではない。出自や宗教や生活様式が異なっても、同じ法的・政治的共同体の対等な成員として、制度的負担と便益を共有するという市民的な相互承認である。国民統合の質が重要なのであり、ナショナルな感情の強度ではない。国民統合と社会保障は、一方が原因で他方が結果という直線ではなく、相互に再生産しうる循環をなす。

4 国防は「何を共同で守るのか」という問いを避けられない

国防では、この問題がさらに極端な形で現れる。防衛は財政負担だけでなく、場合によっては生命・身体への危険を含む。国家が防衛組織を持ち、装備を調達し、指揮系統を整備するだけでは、社会全体の防衛意思まで自動的に生まれるわけではない。

レヴィは徴兵制の比較史研究で、市民が徴兵に応じるか、忌避や抵抗に向かうかが、政府の信頼性、負担配分の公正さ、他の市民も応じているという認識に条件づけられてきたことを示した。[29] イングルハート、プラネン、ウェルツェルは世界価値観調査を用いて、多くの先進社会で「国のために戦う意思」が長期的に低下してきたことを報告し、これを長い平和の個人レベルの基礎と解釈した。[30] 2026年に縄田健悟が同調査の第5波・第6波を用いて行った多水準分析では、個人レベルの国民的アイデンティティだけでなく、社会全体の集合的な国民的アイデンティティも戦う意思と正の関連を示した。[31] 台湾で調査実験を行ったワンとエルデメルダシュは、他者も戦うと認識することが戦う意思を高め、その効果は国民的アイデンティティの弱い人でむしろ強いことを見出した。アイデンティティの弱い人ほど、他者の行動を計算に入れて自分の行動を決めるからである。[32]

ここに、税と同じ構造が見える。国防に対する協力もまた、他者が協力するという予期に条件づけられている。ただし、これらの結果は「強いナショナリズムほど望ましい」という規範的結論を意味しない。縄田の論文自身が、集団レベルのアイデンティティと戦闘意思の結びつきが戦争・紛争のマクロ過程にも関係しうると指摘している。国民統合は防衛能力の資源になりうると同時に、攻撃的動員の資源にもなりうる。

民主国家に必要なのは、無限定の自己犠牲を要求する国民統合ではない。何を守るのか、誰を守るのか、どのような手続と価値を守るのかについて、国民が批判的に共有できる政治的帰属である。人文知の役割は、戦意を高揚させる神話の供給ではない。戦争の記憶、加害と被害、制度の成立史、地域の経験を保存し、現在の国家が何を継承し、何を拒否するのかを考える材料を提供することである。

5 政治家自身が国民統合の受益者である

この議論を政治家の側から見ると、皮肉な点に行き着く。政治家は国民統合を上から国民に与える存在ではない。政治家自身が、国民統合によって公的権威を与えられる受益者である。

選挙で当選した者の決定が、なぜその候補に投票しなかった人にも一定の拘束力を持つのか。法律に書かれているから、という答えは一段目にすぎない。なぜ敗者もその法的手続を自分たちの共同的意思決定の仕組みとして受け入れるのか。そこには、同じ政治共同体の構成員として、一定の手続に従って共同事項を決めるという相互承認がある。タイラーの正統性研究が示すように、権威は制裁能力だけでなく、正当に従うべき権威だという認識によって実効性を得る。[33]

ベネディクト・アンダーソンは国民を、成員の大半が互いに会うことのないまま、それでも一つの共同体に属しているという像を抱く「想像の共同体」と呼んだ。[34] エルネスト・ルナンは1882年の講演で、国民の存在を「日々の人民投票」になぞらえ、国民とは過去の共有と現在の同意によって絶えず更新される意志であると論じた。[35] 政治家が行使する権限は、この想像と同意の産物である。分解すれば、次のような依存関係になる。政治共同体への帰属と相互承認があり、それが共通の憲法・法・手続の正統性を支え、それが選挙結果と公的決定の受容を可能にし、そのうえで政治家は公的権限を行使できる。もちろん現実には逆方向の因果もある。公正で有能な政治が制度への信頼を高め、国民統合を強める。国民統合と、正統で有効な国家制度とは循環をなす。

歴史・文化・教育・博物館は、この循環の全てを単独で生み出すわけではない。しかし、政治共同体が自分自身を時間の中で認識し、異なる成員が共有できる参照枠を持ち、その参照枠を批判的に更新するための制度群の一部である。それを「行政の本体ではない余剰」とみなすことは、国家の上部機構だけを見て、それを支える社会的条件を捨象することである。

6 統合は同質化ではない

国民統合という語には危険がある。国家が一つの民族、一つの歴史観、一つの文化を国民に強制することまで正当化しかねないからである。アーネスト・ゲルナーは、産業社会が標準化された「高文化」を必要とし、国家がその文化を教育制度を通じて全成員に行き渡らせることでナショナリズムが成立すると論じた。[36] ホブズボームとレンジャーは、国民の古さを示すとされる儀礼や伝統の多くが近代に創出されたことを示した。[37] ルナンもまた、国民の形成には忘却が、しばしば歴史的誤謬が不可欠であり、統一は常に暴力によって成し遂げられてきたと述べている。[38] 国民統合の装置は、こうした同質化と忘却の装置として働いてきた歴史をもつ。

したがって、ここでいう統合は同質化と明確に区別されなければならない。第一に、統合されるべきなのは人々の文化的内容ではなく、政治的関係である。異なる宗教、地域、出自、歴史認識を持つ人々が、同じ制度の対等な構成員として扱われることが中心になる。ハーバーマスが「憲法愛国主義」と呼んだのは、民族的・文化的同質性ではなく、民主的な憲法原理と手続への帰属を核にした政治的統合の構想である。[39] 第二に、共有される歴史は無謬の英雄譚ではない。加害、差別、内戦、植民地主義、政策失敗を含め、証拠に基づいて訂正可能でなければならない。第三に、国民統合は国家への無条件服従ではない。権力を批判する権利を共有することも、民主的統合の一部である。

この意味で、人文知の批判機能と統合機能は対立しない。ヤン・アスマンは、集団の自己像を支える記憶のうち、日常的な口承の範囲を越えて、文書、記念物、儀礼、制度に固定され、専門家によって管理される記憶を「文化的記憶」と呼んだ。[40] ピエール・ノラは、生きた記憶が失われた社会において記憶が意識的に保存される場所を「記憶の場」と呼び、アーカイブや博物館をその代表とした。[41] 博物館は、ルナンのいう忘却に抗して物証を保存する装置である。都合の悪い史料によって国民神話を壊すことは、短期的には不和を生むことがある。しかし、虚偽を共有することより、異論を処理する方法と証拠へのアクセスを共有することの方が、民主的政治共同体には耐久性がある。統合の対象は「同じ答え」ではなく、「同じ公共世界で答えを争う関係」である。

7 土器は何を証言するのか

人文知をただ「昔のことを知る知識」と定義すると、博物館や考古学は行政の周縁に見える。しかし人文知には別の機能がある。異なる時間、地域、階層、制度、価値を、一つの因果モデルへ乱暴に還元せず、それらの関係を記述し、意味づけ、比較し、批判可能な形で接続する機能である。土器はその具体例として適している。

一片の土器は物質としては焼成された粘土である。しかし、出土層位、型式、製作技法、付着物、周辺遺物、年代測定、地域分布と接続されることで、人間行動についての証拠になる。ここで決定的なのは、その証拠力が一点の土器にではなく、土器の群に宿るという点である。型式編年は、多数の類似した個体の微細な差異を比較することで初めて成立する。一点の完形品がどれほど美しくても、それだけでは年代も分布も分からない。日本民具学会が民具について「群としての価値」を主張したのと同じ論理が、土器にはより強く当てはまる。[3] 「同じような土器ばかり」という印象は、資料の無価値を示すのではなく、比較を可能にする系列が保存されていることを示している。

近年の分析化学はこの点を実証している。2013年の研究は、日本列島の縄文草創期、およそ1万5千年前から1万1千年前の土器に付着した炭化物の脂質・安定同位体分析から、最古級の土器が水産資源の調理に使われていたことを示した。[42] 2016年の研究は、日本列島各地から出土した143個体の土器の脂質分析によって、草創期以降およそ9千年にわたり土器が主に水産資源の調理に用いられ続けたことを明らかにした。[43] 2019年にはヨーロッパ先史時代の小型注口土器に残った脂質から、乳幼児に反芻動物の乳を与えていたことが示され、[44] 2020年には土器に吸収された食物脂質中の特定脂肪酸を用いて土器そのものを放射性炭素年代測定する方法が報告された。[45] 2025年には、農耕開始期の日本列島と朝鮮半島の土器の脂質を比較し、朝鮮半島ではキビが広く調理されていたのに対して同時期の日本列島の土器からはそれが検出されないという調理伝統の差異が報告されている。[46]

これらの研究の分析対象は、その多くが新たな発掘ではなく、過去の調査で出土し、各地の収蔵施設に保管されてきた資料である。発掘当時には存在しなかった方法が、保存されていた土器から新しい証拠を引き出した。ここには経済学でいう準オプション価値の構造がある。アローとフィッシャーは、将来の情報が不確実であるとき、不可逆的な開発を留保することにはそれ自体の価値があると論じた。[47] 資料の廃棄は不可逆であり、将来の分析方法は不確実である。したがって、現在の尺度で価値付けできない資料を保存することは、感傷ではなく、不確実性下の合理的な留保である。日本民具学会の声明が、現在価値付けができていない民具についても、研究が進展した時に未来の住民が新しい知見を引き出せると述べたのは、この論理である。[3]

日本の土器資料がどこから来るかも、判断に関わる。文化財保護法は、周知の埋蔵文化財包蔵地で土木工事等を行う場合の届出と、必要に応じた発掘調査を定めている。文化庁によれば、開発や宅地化に伴い全国で年間9千件程度の発掘調査が行われている。[48] 考古資料のなかで量的に最も多いのは通常、土器や陶磁器であり、[49] それらは地方公共団体の収蔵施設に集積される。「土器しかない」博物館の土器の多さは、施設の貧しさではなく、法制度が半世紀以上にわたって生産してきた証拠の量を反映している。その量が収蔵庫を圧迫しているのは事実であり、文化庁が2026年に資料管理の選択肢を整理したのもそのためである。しかし、圧迫の解決を「価値がない」という判断で代替することはできない。何を残し、何を手放すかの判断には、まず群としての価値を評価する専門的作業が必要であり、その作業を行う人員と予算がなければ、廃棄は評価ではなく放棄になる。

人文知の統合は、物質を人間行動へ、人間行動を生活様式へ、生活様式を社会変動へ、過去の社会変動を現在の自己理解へ接続する。しかも、その接続は自由な物語ではなく、物証と方法によって反証可能でなければならない。統合とは、ばらばらの知識を一つの結論へ押し込むことではない。異質な証拠の間にどこまで橋を架けられるか、どこから先は推測なのか、複数の解釈が競合するとき何を根拠に選ぶのかを明示する営みである。この能力は政治にも必要である。政治家は経済学者、考古学者、疫学者、軍事専門家、法学者のいずれでもない。それでも、それぞれの専門知が示す異なる事実と価値を、一つの公共的判断の場へ持ち込まなければならない。

8 博物館は社会の自己記述装置である

日本の博物館法は、2022年の改正(2023年4月施行)で、その目的を社会教育法に加えて文化芸術基本法の精神に基づくものとし、博物館が社会教育施設と文化施設の双方の役割を担うことを明確にした。同時に、博物館の事業に資料のデジタル・アーカイブ化と公開、他館との連携、地域の多様な主体との連携・協力による文化観光その他の活動を通じた地域の活力向上への寄与を加えた。[50] 国際博物館会議(ICOM)の2022年定義は、研究、収集、保存、解釈、展示に加え、教育、享受、省察、知識共有を掲げる。[51] UNESCOの2015年勧告は、博物館とコレクションを文化的・自然的証言を守る主要な手段と位置づけ、教育、異文化間対話、社会的結束との関係を明記し、博物館の主要機能は純粋に財務的な言葉では表現できないとしている。[52]

この制度像から見れば、展示室に何種類の物が並んでいるかだけで博物館の価値を測ることは、対象の機能を取り違えている。研究資料としての保存、将来の再分析可能性、地域史の記録、学校教育との接続、異なる世代が同じ物証へアクセスできることは、展示品目数とは別の価値である。日本には社会教育調査上、博物館1,305館と博物館類似施設4,466館、合わせて5,700館を超える施設があるが、博物館法上の登録博物館と指定施設は約1,300館、全体の2割にすぎない。[53] 日本博物館協会の調査に基づく整理によれば、典型的な博物館は1979年頃に建てられ、常勤職員は3名(うち学芸員1名)で、常勤館長のいない館が4割、学芸員のいない館が2割弱に上る。[54] 「土器しかない」と評される館の多くは、こうした小規模施設である。

博物館学は、博物館が中立的な倉庫ではなく、知識を選択し編成する制度であることを論じてきた。アンダーソンは『想像の共同体』の改訂版に「人口調査、地図、博物館」の章を加え、植民地国家がこの三つの制度を通じて統治対象の想像の仕方を形作り、それが独立後の国民国家に継承されたことを論じた。[55] トニー・ベネットは19世紀の公共博物館を、市民を規律ある公衆として形成する装置として分析した。[56] フーパー=グリーンヒルは博物館が歴史的に知識の生産・編成に関与してきたことを検討し、[57] カプラン編の論集は各国の事例を通じて、博物館、コレクション、展示が国民的・文化的アイデンティティの形成と争いの場になってきたことを扱った。[58]

日本の考古学と博物館も例外ではない。溝口孝司は近代日本の考古学が国民的アイデンティティの形成と変容にどのように関与してきたかを分析し、[59] フォーセットやハドソンは縄文や弥生をめぐる語りが日本人の起源論と結びついてきた過程を論じている。[60] 岡本太郎が1952年に「縄文土器論」を発表し、それまで美術史の外にあった縄文土器を日本の造形の根源として位置づけたことは、土器が国民の自己像の構成要素になった典型例である。[61] 2021年には「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産に登録された。[62] 土器は物質であると同時に、政治共同体が自らの起源と時間を語る素材として繰り返し用いられてきた。だからこそ、その語りが物証に戻って検証できることが重要になる。

博物館の側にも、この機能を自覚した系譜がある。伊藤寿朗は、宝物の保存を目的とする第一世代、公開を目的とする第二世代に続いて、市民の参加と地域課題の解決を軸にする第三世代の博物館を構想し、地域博物館論を提示した。[63] 金子淳は日本の博物館の制度史を政治的文脈の中で検討した。[64] 博物館は、共同体に一つの正解を教え込む装置である必要はない。共同体が自分自身について語る際に、勝手な物語だけでなく、保存された物証へ戻ることを可能にする装置である。共有されるのは結論ではなく、参照可能な証拠と、それをめぐって議論する公共空間である。

9 「土器しかない」という認識の様式

「土器しかない」という言葉の誤りは、土器の価値を過小評価したことだけではない。価値を、発言者自身が即座に理解できる効用へ縮減していることにある。ジェームズ・C・スコットは、近代国家が社会を統治するために、複雑な現実を計測・比較可能な形に単純化する「可読性」を追求し、その単純化が現地の実践知を見落として失敗を招いてきたことを論じた。[65] マイケル・パワーは、検証の儀礼としての監査が組織の目的そのものを監査可能なものへ変形させる「監査社会」を描いた。[66] 展示事業の自己収入比率という指標は、この可読性の一形態である。指標自体が誤りなのではない。指標に映らないものを存在しないものとして扱う認識の様式が問題なのである。

文化的価値の測定をめぐる研究は、この問題に長く取り組んできた。英国の芸術・人文学研究会議による文化的価値プロジェクトは、経済的インパクトへの還元を批判し、個人の経験、省察、市民性の形成といった次元を含めた評価枠組みを提示した。[67] ホールデンは、文化の価値を本質的価値、道具的価値、制度的価値に区別し、政策が道具的価値の測定に偏ることで文化政策の正統性が危機に陥ると論じた。[68] 日本の文化芸術基本法の前文も、文化芸術が人々の心のつながりや相互理解の土壌を提供し、多様性を受け入れる社会を形成するとともに、それぞれの国や時代における国民共通のよりどころ、自己認識の基点となることを述べている。[69] 2002年の文化芸術振興の基本方針も、文化が人と人を結び付け、相互理解と尊重の土壌を提供し、協働し共生する社会の基盤となると位置づけていた。[70]

これらの政策文書を権威として無批判に受け入れる必要はない。しかし、日本の文化政策それ自体が、文化を娯楽消費や観光収入だけではなく、社会の結合と自己認識に関わるものとして制度化してきたことは確認できる。文化政策を担当する政治家がこの次元を無視するなら、単に文化好きではないのではなく、自らが運用する制度の目的を理解していないことになる。人文的制度の統合機能は、経済、福祉、防衛とは別の棚に置かれた「文化部門」の特殊利益ではない。経済政策が誰の繁栄を目的とするのか、福祉制度がなぜ見知らぬ他者を支えるのか、防衛が何を守るのか、教育が何を次世代へ渡すのかという問いは、政治共同体の自己理解なしには答えられない。

10 政治家に要求されるのは専門知の所有ではなく統合能力である

政治家は考古学者である必要はない。土器の型式編年を知らないこと自体は、政治的失格ではない。政治家はあらゆる専門領域について専門家より無知であることを避けられない。だからこそ政治家の職能は、個別専門知を所有することではなく、自分の尺度では測れない価値が存在することを認識し、専門家、市民、当事者から知識を集め、異なる価値を比較し、決定理由を公共的に説明することにある。

「自分には価値が分からない」と「価値がない」は異なる。「自分は利用しない」と「社会に必要ない」も異なる。「来館者が少ない」と「収蔵資料が無価値」も異なる。「施設運営に改善余地がある」と「保存・研究・教育機能を廃止すべき」も異なる。政治判断とは、この区別を保ったまま、費用と便益、不可逆性、代替案を比較することである。

土器中心の博物館についても、維持が常に正解とは限らない。来館者が極端に少ない、保存環境が悪い、研究利用がない、近隣施設との統合で機能を高められる、建物維持費が過大である、といった事情があれば、再編、共同運営、移管、展示縮小、デジタル化を伴う集約は合理的な選択肢になりうる。奈良県が民俗資料について有識者委員会を設けて収集・保存のルールを策定し、資料の三次元デジタル記録と譲渡先の探索を経て廃棄を最後の選択肢とする方針を示したのは、知事の当初の発言から手続へと議論が移った例である。[71] 2026年の望ましい基準も、資料管理の検討に当たって多様な関係者の意見を聴き、手続の透明性を確保し、廃棄は他の手段を検討した上で慎重に行うことを求めている。[5] つまり国家の制度自身が、「土器しかない」という印象だけでは廃棄の理由にならないことを認めている。

判断には、資料価値、研究可能性、教育効果、地域的役割、代替保存先、移行費用を調べる必要がある。「土器しかない」は、そのどれについても情報を与えない。ここに政治家の発言としての深刻さがある。私人が「壺ばかりで退屈だった」と言うなら趣味の表明で終わる。政治家は予算、制度、都市計画、教育、文化財保護を通じて、自分が理解できない価値を社会から消滅させうる位置にいる。知識不足が政策決定へ変換される権限を持つ者には、無知そのものよりも、無知を自覚して補正する制度的態度が要求される。

結論 「土器しかない」という言葉が露呈する国家観

「土器しかない」という言葉は、研究価値、教育価値、歴史的価値、地域的価値、将来の再分析可能性、社会的記憶、公共的議論の基盤といった異なる価値を、一つの目先の尺度で切断する。政治とは、本来その逆の仕事である。通約しきれない複数の価値を認識し、専門知を接続し、費用と不可逆性を比較し、異なる人々が受け入れうる理由を組み立てる。人文知の統合的機能は、その政治的能力と深く同型である。

国家は官僚機構だけでは動かない。社会保障は、見知らぬ他者への再分配を正当化する連帯なしには脆くなる。税制は、強制力だけでなく、公正と信頼と相互性に支えられる。民主的統治は、敗者も手続を受け入れる正統性を必要とする。国防は、何を共同で守るのかという政治共同体の自己理解を避けられない。そして政治家の権威そのものが、同じ共同体の成員として共通の制度に従うという国民相互の承認に依存する。

だから、人文的制度を「役に立たないもの」として軽視する政治家の問題は、文化への趣味が乏しいことではない。国家行政の前提にある社会的・歴史的・象徴的な基盤を、自分が直接扱う予算や法令とは別物だと誤認することにある。土器の価値が分からないことが問題なのではない。政治家でありながら、国家は税法と予算書と官僚機構だけで成立しているのではなく、見知らぬ他者を同じ政治共同体の成員として認め、負担と便益と記憶と未来を共有しようとする国民統合の上に成立していること、そして歴史・文化・教育・博物館を含む人文的制度が、その統合を形成し、検証し、批判し、世代を越えて更新するインフラの一部であることを理解しないことが問題なのである。その基盤がなければ、社会保障も徴税も国防も民主的統治も長期には支えられない。いわんや、その統合によって権威を与えられている政治家自身も。

[1] 北海道博物館協会「「一番のがんは学芸員」発言への反論【会長によるメッセージ】」2017年。発言は2017年4月16日、滋賀県大津市で開かれたセミナーにおける山本幸三地方創生担当大臣(当時)のもの。https://www.hkma.jp/information/1147

[2] 奈良新聞デジタル「奈良県立民俗博物館巡る山下知事発言受け、日本民具学会が声明 「安易な一括廃棄」懸念 「群として価値」と指摘」2024年7月19日。https://www.nara-np.co.jp/news/20240719213018.html 知事の2024年7月10日定例記者会見における発言は、奈良県立民俗博物館『研究紀要』第25号(2025年)にも引用されている。https://www.pref.nara.lg.jp/documents/6567/20251104142044.pdf

[3] 日本民具学会「民具(有形民俗文化財)の廃棄問題に対する声明」2024年7月18日。https://www.mingu-gakkai.com/seimei_20240718.php 声明の要旨は前掲註[2]の奈良新聞記事による。

[4] 文化庁「国立博物館・国立美術館の次期中期目標につきまして」。https://www.bunka.go.jp/bunkacho/shokan_hojin/94340601.html 中期目標は2026年2月27日に文部科学省が策定。同ページで文化庁は、自己収入の数値目標を展示事業のみに設定すること、展示収入が4割未満となることだけをもって直ちに「再編」の対象とするものではないこと、「再編」は閉館を想定していないことを説明している。

[5] 「博物館の設置及び運営上の望ましい基準の全部を改正する告示」(令和8年文部科学省告示第69号)、2026年3月31日公布・施行。文化庁「博物館の設置及び運営上の望ましい基準の全部を改正する告示(令和8年文部科学省告示第69号)について」。https://www.bunka.go.jp/seisaku/bijutsukan_hakubutsukan/shinko/kankei_horei/94355301.html 資料管理の選択肢と廃棄の位置づけについては、文化庁通知を踏まえた解説として、特定非営利活動法人文化財保管活用支援機構「博物館の「望ましい基準」に「廃棄」が明記 先に問うべき管理の課題」2026年4月2日を参照。https://cpsus.org/column/museum-standards-disposal-kijun/

[6] 公益財団法人日本博物館協会『令和6年度 日本の博物館総合調査 調査結果の概要(速報版)』2026年3月30日。対象4,368施設、回答2,507施設。https://www.j-muse.or.jp/wp-content/uploads/2026/03/R6_Sougouchousa_sokuhou.pdf

[7] Tom R. Tyler, Why People Obey the Law, Yale University Press, 1990(Princeton University Press, 2006年版); Valerie Braithwaite and Margaret Levi eds., Trust and Governance, Russell Sage Foundation, 1998.

[8] Matthew Wright and Tim Reeskens, "Of what cloth are the ties that bind? National identity and support for the welfare state across 29 European countries," Journal of European Public Policy, 20(10), 2013, pp. 1443–1463, DOI: 10.1080/13501763.2013.800796.

[9] Max Weber, "Politik als Beruf," 1919(脇圭平訳『職業としての政治』岩波文庫、1980年).

[10] Charles Tilly, "War Making and State Making as Organized Crime," in Peter B. Evans, Dietrich Rueschemeyer and Theda Skocpol eds., Bringing the State Back In, Cambridge University Press, 1985, pp. 169–191.

[11] Tyler, Why People Obey the Law; Tom R. Tyler, "The Psychology of Legitimacy: A Relational Perspective on Voluntary Deference to Authorities," Personality and Social Psychology Review, 1(4), 1997, pp. 323–345.

[12] Margaret Levi, Of Rule and Revenue, University of California Press, 1988.

[13] Margaret Levi, Consent, Dissent, and Patriotism, Cambridge University Press, 1997; Margaret Levi, "A State of Trust," in Braithwaite and Levi eds., Trust and Governance.

[14] Braithwaite and Levi eds., Trust and Governance.

[15] Michael G. Allingham and Agnar Sandmo, "Income Tax Evasion: A Theoretical Analysis," Journal of Public Economics, 1(3–4), 1972, pp. 323–338.

[16] James Alm, Gary H. McClelland and William D. Schulze, "Why Do People Pay Taxes?" Journal of Public Economics, 48(1), 1992, pp. 21–38.

[17] Erzo F. P. Luttmer and Monica Singhal, "Tax Morale," Journal of Economic Perspectives, 28(4), 2014, pp. 149–168.

[18] Erich Kirchler, Erik Hoelzl and Ingrid Wahl, "Enforced versus voluntary tax compliance: The 'slippery slope' framework," Journal of Economic Psychology, 29(2), 2008, pp. 210–225, DOI: 10.1016/j.joep.2007.05.004; Christoph Kogler et al., "Trust and power as determinants of tax compliance: Testing the assumptions of the slippery slope framework in Austria, Hungary, Romania and Russia," Journal of Economic Psychology, 34, 2013, pp. 169–180, DOI: 10.1016/j.joep.2012.09.010.

[19] Urs Fischbacher, Simon Gächter and Ernst Fehr, "Are people conditionally cooperative? Evidence from a public goods experiment," Economics Letters, 71(3), 2001, pp. 397–404; Bruno S. Frey and Benno Torgler, "Tax morale and conditional cooperation," Journal of Comparative Economics, 35(1), 2007, pp. 136–159.

[20] OECD, Tax Morale: What Drives People and Businesses to Pay Tax?, OECD Publishing, 2019.

[21] John G. Cullis and Alan Lewis, "Why people pay taxes: From a conventional economic model to a model of social convention," Journal of Economic Psychology, 18(2–3), 1997, pp. 305–321.

[22] David Miller, On Nationality, Oxford University Press, 1995(富沢克ほか訳『ナショナリティについて』風行社、2007年). とくに国民的連帯、集合行為、再分配、熟議民主主義の関係については同書第4章。

[23] Yael Tamir, Liberal Nationalism, Princeton University Press, 1993(押村高ほか訳『リベラルなナショナリズムとは』夏目書房、2006年); Yael Tamir, Why Nationalism, Princeton University Press, 2019.

[24] T. H. Marshall, Citizenship and Social Class and Other Essays, Cambridge University Press, 1950(T・H・マーシャル、トム・ボットモア、岩崎信彦・中村健吾訳『シティズンシップと社会的階級』法律文化社、1993年).

[25] Richard Johnston, Keith Banting, Will Kymlicka and Stuart Soroka, "National Identity and Support for the Welfare State," Canadian Journal of Political Science, 43(2), 2010, pp. 349–377.

[26] 前掲註[8]。

[27] Bo Rothstein and Eric M. Uslaner, "All for All: Equality, Corruption, and Social Trust," World Politics, 58(1), 2005, pp. 41–72.

[28] Keith Banting and Will Kymlicka eds., The Strains of Commitment: The Political Sources of Solidarity in Diverse Societies, Oxford University Press, 2017.

[29] Levi, Consent, Dissent, and Patriotism.

[30] Ronald F. Inglehart, Bi Puranen and Christian Welzel, "Declining willingness to fight in wars: The individual-level basis of the long peace," Journal of Peace Research, 52(4), 2015, pp. 418–434.

[31] Kengo Nawata, "Contextual Effects of National Identity on Willingness to Fight: A Multilevel Analysis Using the World Values Survey," European Journal of Social Psychology, 56(3), 2026, pp. 537–550, DOI: 10.1002/ejsp.70060.

[32] Austin Horng-En Wang and Nadia Eldemerdash, "National identity, willingness to fight, and collective action," Journal of Peace Research, 2023, DOI: 10.1177/00223433221099058.

[33] Tyler, Why People Obey the Law(正統性と遵守に関する諸章).

[34] Benedict Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, revised edition, Verso, 1991(白石隆・白石さや訳『定本 想像の共同体』書籍工房早山、2007年).

[35] Ernest Renan, "Qu'est-ce qu'une nation?"(1882年3月11日、ソルボンヌ講演)(鵜飼哲訳「国民とは何か」、E・ルナンほか『国民とは何か』インスクリプト、1997年所収).

[36] Ernest Gellner, Nations and Nationalism, Blackwell, 1983(加藤節監訳『民族とナショナリズム』岩波書店、2000年).

[37] Eric Hobsbawm and Terence Ranger eds., The Invention of Tradition, Cambridge University Press, 1983(前川啓治・梶原景昭ほか訳『創られた伝統』紀伊國屋書店、1992年).

[38] 前掲註[35]。

[39] Jürgen Habermas, "Citizenship and National Identity," in Between Facts and Norms: Contributions to a Discourse Theory of Law and Democracy, trans. William Rehg, MIT Press, 1996, Appendix II.

[40] Jan Assmann, "Collective Memory and Cultural Identity," New German Critique, 65, 1995, pp. 125–133.

[41] Pierre Nora, "Between Memory and History: Les Lieux de Mémoire," Representations, 26, 1989, pp. 7–24.

[42] O. E. Craig et al., "Earliest evidence for the use of pottery," Nature, 496, 2013, pp. 351–354, DOI: 10.1038/nature12109.

[43] A. Lucquin et al., "Ancient lipids document continuity in the use of early hunter–gatherer pottery through 9,000 years of Japanese prehistory," Proceedings of the National Academy of Sciences, 113(15), 2016, pp. 3991–3996, DOI: 10.1073/pnas.1522908113.

[44] J. Dunne et al., "Milk of ruminants in ceramic baby bottles from prehistoric child graves," Nature, 574, 2019, pp. 246–248, DOI: 10.1038/s41586-019-1572-x.

[45] Emmanuelle Casanova et al., "Accurate compound-specific 14C dating of archaeological pottery vessels," Nature, 580, 2020, pp. 506–510, DOI: 10.1038/s41586-020-2178-z.

[46] "Lipid residue analysis reveals divergent culinary practices in Japan and Korea at the dawn of intensive agriculture," Proceedings of the National Academy of Sciences, 2025, DOI: 10.1073/pnas.2504414122. 著者名および巻号は未確認。

[47] Kenneth J. Arrow and Anthony C. Fisher, "Environmental Preservation, Uncertainty, and Irreversibility," Quarterly Journal of Economics, 88(2), 1974, pp. 312–319.

[48] 文化庁「埋蔵文化財」(「全国で年間9千件程度の発掘調査」)。https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/maizo.html 統計の詳細は文化庁文化財第二課『埋蔵文化財関係統計資料――令和6年度――』2025年3月。届出および発掘調査の制度は文化財保護法(昭和25年法律第214号)第6章「埋蔵文化財」による。

[49] 徳島県立博物館「土器・陶磁器について」2024年5月24日。http://museum.bunmori.tokushima.jp/newgakugei/ooshio/koukokobanashi/kk202405242.html

[50] 博物館法(昭和26年法律第285号)。博物館法の一部を改正する法律(令和4年法律第24号、2023年4月1日施行)による改正後の第1条および第3条。改正の概要は、文化庁「博物館法改正とこれからの博物館」(第70回全国博物館大会資料、2022年11月16日)https://www.j-muse.or.jp/02program/pdf/bunkachouforum.pdf、および文化庁博物館総合サイト「博物館法とは」https://museum.bunka.go.jp/museum/act/ を参照。

[51] International Council of Museums, "Museum Definition," adopted 24 August 2022. https://icom.museum/en/resources/standards-guidelines/museum-definition/

[52] UNESCO, Recommendation concerning the Protection and Promotion of Museums and Collections, their Diversity and their Role in Society, adopted 17 November 2015. https://www.unesco.org/en/legal-affairs/recommendation-concerning-protection-and-promotion-museums-and-collections-their-diversity-and-their

[53] 文部科学省「令和3年度社会教育調査」(2021年10月1日現在)。https://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa02/shakai/gaiyou/chousa/1268405.htm 登録博物館・指定施設の比率については文化庁博物館総合サイト「博物館について」。https://museum.bunka.go.jp/museum/

[54] 一般財団法人地域創造「制作基礎知識シリーズVol.52 博物館法改正」。https://www.jafra.or.jp/library/letter/backnumber/2022/333/4/1.html 日本博物館協会の総合調査に基づく整理として、主たる施設の建設年の平均値1979年、常勤職員数3名、常勤館長のいない施設40.5%、学芸員のいない施設16.5%を挙げる。

[55] Anderson, Imagined Communities, revised edition, Chapter 10 "Census, Map, Museum."

[56] Tony Bennett, The Birth of the Museum: History, Theory, Politics, Routledge, 1995.

[57] Eilean Hooper-Greenhill, Museums and the Shaping of Knowledge, Routledge, 1992.

[58] Flora E. S. Kaplan ed., Museums and the Making of "Ourselves": The Role of Objects in National Identity, Leicester University Press, 1994.

[59] Koji Mizoguchi, Archaeology, Society and Identity in Modern Japan, Cambridge University Press, 2006.

[60] Clare Fawcett, "Archaeology and Japanese Identity," in Donald Denoon, Mark Hudson, Gavan McCormack and Tessa Morris-Suzuki eds., Multicultural Japan: Palaeolithic to Postmodern, Cambridge University Press, 1996; Mark J. Hudson, Ruins of Identity: Ethnogenesis in the Japanese Islands, University of Hawai'i Press, 1999.

[61] 岡本太郎「四次元との対話――縄文土器論」『みづゑ』1952年2月号。

[62] UNESCO World Heritage Centre, "Jomon Prehistoric Sites in Northern Japan," 2021年登録。

[63] 伊藤寿朗『市民のなかの博物館』吉川弘文館、1993年。

[64] 金子淳『博物館の政治学』青弓社、2001年。

[65] James C. Scott, Seeing Like a State: How Certain Schemes to Improve the Human Condition Have Failed, Yale University Press, 1998.

[66] Michael Power, The Audit Society: Rituals of Verification, Oxford University Press, 1997.

[67] Geoffrey Crossick and Patrycja Kaszynska, Understanding the Value of Arts & Culture: The AHRC Cultural Value Project, Arts and Humanities Research Council, 2016.

[68] John Holden, Cultural Value and the Crisis of Legitimacy: Why Culture Needs a Democratic Mandate, Demos, 2006.

[69] 「文化芸術基本法」(平成13年法律第148号、2017年改正)前文。https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/shokan_horei/kihon/geijutsu_shinko/kihonho_kaisei.html

[70] 「文化芸術の振興に関する基本的な方針」平成14年12月10日閣議決定。https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/hoshin/kihon_hoshin_1ji/index.html

[71] 美術手帖「奈良県立民俗博物館、約4万5000点の資料をデジタル保存へ」。https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/29327 有識者委員会による収集・保存ルールの策定、3Dデジタル保存、市町村や民間への譲渡先の探索、譲渡先が見つからない場合の廃棄という手順が報じられている。

いいなと思ったら応援しよう!