「面」について

 今回は「面」のお話をします。「面」と言っても、お面や仮面ではなくて、平面です。

 長い記事なので、太文字の部分だけをお読みいただいても、読めるように書いてあります。お試しください。

 なお、「まとめ」からお読みくださってもかまいません。


まえがき


うつす・うつる(写・映・移)
・線を引く(引・描・書・敷)
・とおす・とおる(透・通・徹)

 面、とりわけ平面とは、上の行為や動作や現象がおこなわれたり起きる場としてあります。

 文として見てみましょう。

・面に写す。面に映す。面に移す(物を移動させる)。

・面に線を引く。面に線を描く(絵)。面に線を書く(文字)。面に線を敷く(地面に鉄道を敷設する)。

・面をとおす・とおる(光・液体・音声)。

 これまで私は面での「うつす・うつる」と「とおす・とおる」という行為に注目してきましたが、最近は「線を引く」が気になってなりません。

 どうして、そんなことが気になるのかと聞かないでください。私にも、どうしてなのかは分かりません。なぜか気になるし興味があるのです。

     *

「うつす・うつる」と「線を引く」と「とおす・とおる」という行為や動作や現象がおこなわれたり、起きる場としての面(平面)――。

 このように、あらためて文字にして考えてみると不思議な気持ちになります。どうして、そうなっているのでしょう?

 どうして平面なのか、という疑問が浮んできます。

 平面でなければならない理由はありそうです。

 線を引くのであれば、平面、つまり平らな面がいちばん適していそうです。凸凹していては線が引きにくいことは体感としてよく分かります。

 影をうつしたり影をうつすにしても、垂直な壁面にしろ、水平な地面にしろ、そこが平面であれば綺麗にうつりそうです。

 また、光や液体を「透す・通す」とか、光や液体が「透る・通る」という場合にも、平たい面(たとえばスクリーンやふるいや幕)のほうが便利そうです。

 一方で、面が皺くちゃであったり凸凹していても、それほど差し支えはなさそうにも思えてきます。たとえば、布や被いや膜です。

     *

 いずれにせよ、不思議と言えば不思議です。それでいて、当り前と言えば当り前に感じられます。

 そんな得体の知れないところに、私は惹かれるのかもしれません。

 そんなわけで、ここで面(平面)について一度まとめてみようという気になりました。具体的には、上の行為とからめてのまとめになりそうです。

面でおこなわれる行為・動作・現象


 まず、上で挙げた面(平面)でおこなわれる行為・動作・現象をもう少し詳しく書いてみます。

うつす・うつる(写・映・移)
・線を引く(引・描・書・敷)
・とおす・とおる(透・通・徹)

*うつす・うつる(写・映・移)

・面では、影や像(姿)をうつしたり、影や像(姿)がうつったりする。

・「うつす・うつる」には「写・映・移」という漢字が当てられる。

・漢字の熟語をもちいたイメージには、たとえば、映写、複写、転写、写真、撮影、現像、拡大・縮小、編集、修正、改変、解像度、鮮明・不鮮明、投映、投影、鏡像、版画、印刷、映画、動画、投稿、配信、筆写、写本、写経、印画、陰画・陽画がある。漢字ではないがファクスも。

・気になるものとイメージ。トレーシングペーパー、透明フィルム、フィルム、スクリーン、障子、曇りガラス、車窓、ガラス面、鏡面、水面、川面、テレビ画面、液晶画面。

・面は壁面のように垂直な面もあれば、地面や水面のように水平な面もある。

・固定された自然物(地面・水面・川面・洞窟の壁・岩の壁面)、固定されていない人工物(画面・スクリーン・衝立・板面・紙面・盤・版・譜・図)がある。

【※「うつす・うつる(写・映・移)」と「線を引く(引・描・書・敷)」と「とおす・とおる(透・通・徹)」が、ある面で共通して行われたり起こったりすることもありうる。ケースバイケースであるとも言える。】

*線を引く(引・描・書・敷)

・面では、線を引いたり、点や線からなる模様や絵やしるし・記号が描かれたり、文字や記号が書かれたり、線状の建造物が敷かれたり(敷設されたり)、線状ではない建造物がつくられたりする。

・文字は線の中で最も洗練されたものだと言える。

・固定された自然物(地面・洞窟の壁・岩の壁面・敷地)、固定されていない人工物(画面・衝立・板面・紙面・盤・版・譜・図)がある。

・漢字の熟語をもちいたイメージには、たとえば、線画、点画、絵画、塗り絵、書道、筆写、写本、写経、譜面、楽譜、棋譜がある。漢字ではないが、ボード、ボードゲーム、プレート、パネルも。

・広義のプレイ(スポーツ、演奏、演技、遊技、競技)は、始まりと途中と終わりのある線状に進行する動きを基本とする。ある空間(フィールド、コート、ホール、ボード、舞台、スクリーン、パネル、面、盤)で線を描く運動がプレイだと言える。その動きを、一点を基点(起点)とする目線や視線が線を描きながら追う(プレイヤーと観客)。

・気になるものとイメージ。トレーシングペーパー、透明フィルム、フィルム、スクリーン、障子、曇りガラス、車窓、ガラス面、鏡面、水面、川面、テレビ画面、液晶画面。

【※「うつす・うつる(写・映・移)」と「線を引く(引・描・書・敷)」と「とおす・とおる(透・通・徹)」が、ある面で共通して行われたり起こったりすることもありうる。ケースバイケースであるとも言える。】

*とおす・とおる(透・通・徹)

・面にとおしたり、面をとおるものには、光、液体、物質、物体がある。

・「とおす・とおる」には「透・通・徹」という漢字が当てられる。

・漢字の熟語をもちいたイメージには、たとえば、透明、浸透、透視、通過がある。

・気になるものとイメージ。トレーシングペーパー、透明フィルム、フィルム、スクリーン、障子、曇りガラス、車窓、ガラス面、鏡面、水面、川面、テレビ画面、液晶画面。

【※「うつす・うつる(写・映・移)」と「線を引く(引・描・書・敷)」と「とおす・とおる(透・通・徹)」が、ある面で共通して行われたり起こったりすることもありうる。ケースバイケースであるとも言える。】

     *

 上の「まとめ」をつくっている最中に、気になるものとイメージが出てきました。

・気になるものとイメージ。トレーシングペーパー、透明フィルム、フィルム、障子、曇りガラス、車窓、ガラス面、鏡面、水面、川面、テレビ画面、液晶画面。

 とても気になります。

 どこが気になるのかというと、「うつす・うつる(写・映・移)」と「線を引く(引・描・書・敷)」と「とおす・とおる(透・通・徹)」のどれもが起こりそうな場であるからです。

 ただし、大雑把に言っての話です。たとえば、車窓、ガラス面、鏡面、水面、川面で「線を引く(引・描・書・敷)」という行為がおこなわれるなんて、普通は考えられません。

 でも、ありうる気がするし、もしそんなことがあればきわめて妖しいし、場合によっては美しいだろうと思ってしまう自分がいます。

     *

 当初は「まとめ」をつくって、今後の記事のメモにする気でいたのですが、急きょ変更して、以下の見出しの章をつくることにしました。

ガラス面


 結論から言いますと、川端康成の『雪国』を思いだしました。

 この作品の冒頭にある汽車の場面には、「うつす・うつる(写・映・移)」と「線を引く(引・描・書・敷)」と「とおす・とおる(透・通・徹)」のすべてが出てくるのです。

     *

・鏡と化したガラス窓(窓ガラス)が車内と車外との温度差で曇っているところに、島村が指で「線を引くと、そこに女の片眼かためがはっきり浮き出たのだった。」(新潮文庫版・p.8・太文字は引用者による・以下同じ)と描写されています。

     *

・「の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。」と「ことに娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸がふるえたほどだった。」(p.10)。

 ここには、現実の風景や光景が「写る・映る」だけでなく、「透る・透す」と、「通る」=「移る」があります。

 汽車(線路を線状に進む乗り物)が移動している(通っている)からであり、その移動につれて遠くに透って見える「野山のともし火」が見えるからです。

 とおく・遠く
 とおる・通る、とおる・透る、とおす・透す
 とおす/とおされる、とおる/とおられる

 ながい・長い・長く・長さ(線・線状・空間/時間・隔たり/持続)
 ながれる・流れる・流れ(線・線状)
 ながめる・眺める・眺め(視線・目線で追う)
 ながめる/ながめられる

 うつつ・現・現実
 うつる・写る・映る
 うつる/うつされる、写る/写される、うつす/うつされる、映す/映される
 うつる・移る、移る/移される、うつす/うつされる、移す/移される(移動・移送)

 移されていくうつつが硝子にうつる透明なうつくしさ――。
 とおくのながめが硝子をとおしてながれるうつくしさ――。

 そんなふうに言いたくなります。

     *

 こうした目まいがするようなことが起きています。このすべては面(鏡面と化していながら硝子の特性を合わせ持っているガラス面)がなせるわざだと言えそうです。

 ただし、『雪国』で描かれている汽車の窓ガラスは、現実の汽車の窓ガラスではありません。言葉と文字で書かれた窓ガラスである。つまり、読み手の目の前(いまここ)にあるのは事物ではなく言葉と文字であることを忘れてはならないと思います。

 ながい乗り物にのって、とおくにながれるながめを硝子をとおしてながめながら、硝子にうつるうつつのながめをながいあいだながめる――。

 目の前にあるのが言葉と文字以外にないとすれば、言葉と文字をひたすらながめるしかありません。とはいえ、もちろん、読みは人それぞれです。

言葉のありようの真実と実相


 川端康成作の『雪国』という散文の描写を、散文の極北である実用文(たとえば科学書)「のように/として」読むとすれば、この散文の詩的な要素を殺すことになるでしょう。

 つまり、事実誤認をしているのです。この作品は現実の報告書ではなく文芸作品だからにほかなりません。

 別の例を挙げるなら、江戸川乱歩作の小説『鏡地獄』に出てくる鏡が現実にある鏡という事物ではなく、また現実にある鏡についての記述でないのと事態は変わりません。

・小説に出てくる「鏡」:(フィクションに書かれた)言葉・文字
・現実にある「鏡」:事物
・現実にある「鏡」についての記述:(ノンフィクションに書かれた)言葉・文字

 以上の三つは別物なのです。別物なのに、同じ「鏡」という言葉・文字が当てられています。

 大切なことは『鏡地獄』においては、文字と言葉の共鳴と反復と反響と反射だけがあるという点です。
 とりわけ気になる反復と反射は、鏡、狂、境、恐、球、彼、界、き、気、極です。これらの文字を使って『鏡地獄』についての作文が書けるにちがいありません。というか、これらの文字を使わずには書けないでしょう。
 この小説は何かの出来事の報告書ではありません。上の共鳴と反復と反響と反射は、何か具体的な出来事の反映ではない、たどることのできる起源はないという意味です。
 たどることのできる起源がない。作品がたどることのできるものがあるとすれば、それはおそらく作品そのもの――。こう言うと、ものと鏡との関係に似ていますが、鏡を比喩にしては語れない気がします。
(拙文「言葉をうつす言葉、文字をうつす文字(「鏡」を読む・02)」より)

     *

 小説『雪国』に出てくる「ガラス」(フィクションの言葉・文字)が、現実の「ガラス」(事物)でもないし、現実の「ガラス」についての記述(ノンフィクションの言葉・文字)ではないのと事態は変わらないのです。

・小説に出てくる「ガラス」:(フィクションに書かれた)言葉・文字
・現実にある「ガラス」:事物
・現実にある「ガラス」についての記述:(ノンフィクションに書かれた)言葉・文字

 もしこの作品を現実に起こる現象という文脈で読むとするなら、それは現実の報告書ではない言葉からなる文芸作品を、現実の報告書だと事実誤認している。別物どうしを同一視(混同)している。貼られているレッテルと貼られている物を同一視(混同)しているのです。

「(フィクションに書かれた)言葉・文字」と「(ノンフィクションに書かれた)言葉・文字」について言えば、両者は異なる別々の語法と論理で書かれています。

 同様に、神話と詩と科学書と小説とでは、それぞれが異なる語法と論理で記述されています。同列に扱うことには無理があります。

 異なる語法と論理で書かれているのに、まったく同じ言葉・文字がつかわれている――ここに最大の問題がありそうです。

     *

 そんなわけで、ある語法と論理で書かれたものを別の語法と論理で論じたり評するのは、無い物ねだりなのです。

 したがって、たとえば詩的な散文で書かれたフィクションの文言を、たとえば科学的見地から言挙げすることに意味があるとは私には思えません。「この部分は科学的ではない」とか「ありえない」とか「これは事実に反する」というふうに、です。

 逆の場合もあるでしょう。科学書の文言を「詩的ではない」とか「味も素っ気もない」と評したとすれば、それはお門違いと言うべきでしょう。

     *

 レッテル(おそらくたった一つしかありません、「ガラス」「鏡」「猫」のように)を剥がして、目の前にある言葉と文字のありように目を向けるべきなのです。

・目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
・目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。

 どういうわけか、レッテル(letter・オランダ語)と文字(letter・英語)と文学・文芸(letters)に同じ文字列が当てられていますけど、こういうことも言葉・文字にはよくあります。

     *

 生きている「猫」も、辞典や事典で定義されている「猫」も、神話や童話や絵本や小説の「猫」も、写真やイラストや各種画像の「猫」も、ぬいぐるみやおもちゃの「猫」も、アニメやゲームの「猫」も、ぜんぶ同じ(たった一つの)「猫」という言葉と文字で束ねられ括られる世界
 赤ちゃんは、学校教育を受ける前から、その世界に染まっていきます。組み込まれていきます。なっていきます。
 言葉でできた世界。「同じ」の世界。
 多種多様な事物に囲まれた人の世界は、「同じ」を基本原理とする言葉(音声)と文字によって一本化され、束ねられているようです。
(拙文「似ている、そっくり、同じ(世界は言葉でできている)」

 人にとっての多種多様な「猫」「ガラス」「鏡」(現実の事物・架空の事物・言葉・文字)に、同じ(たった一つの)「猫」「ガラス」「鏡」という言葉・文字が当てられている。

 その同じ(たった一つの)言葉・文字が、多種多様な「猫」「ガラス」「鏡」(現実の事物・架空の事物・言葉・文字)を束ねて一本化している。

 そんなふうに言えそうです。

     *

 唐突に聞こえるかもしれませんが、いま私の頭にあるのは、ジル・ドゥルーズとガストン・バシュラールの一連の著作です。

 簡単に言うと、哲学者だったドゥルーズがどうしてあれだけ文学作品を対象にした論考(印象に残っているのは『意味の論理学』におけるルイス・キャロルとアントナン・アルトーの扱いです)を書いたのか、そして理系でもあるような文系でもあるような立ち位置にいたバシュラールという人物がどうして文学作品のうちで特に詩的な作品に傾いていったのかが、私なりになんとなく分かるような気がするのです。

     *

 いずれにせよ、私の特技は曲解と誤解です。

 勝手に自分で納得しているだけなのですが、事物や現象を「正確に」(正しく確かに)記述しようという意思と意志が強い散文よりも、散文(その極北は学術論文でしょうか)から見れば荒唐無稽ともいえる「論理と文法」(この「論理」も「文法」も比喩です)によって事物や現象を歌おう(叙事詩や叙情詩をはじめとする詩歌のことです)、あるいは語ろう(神話や説話や物語の系列のことです)とした文学作品に何かを期待していたのではないか、そんな気がしてなりません。

 もうそうであれば、そうした広義の文学への目配りに、この二人の独創性があり、思索の幅の広さがあるのではないでしょうか? 姿勢がフェア(偏狭はない)であり柔軟だという意味です。

     *

 ジル・ドゥルーズとガストン・バシュラールについては、次の記事「知らないものについて読む」で触れたことがあります。

(一部を以下に引用します。)

 文芸作品そのものを読むよりも文芸批評を読むほうが好きでした。大学生時代はちょうど文芸批評の全盛期みたいな雰囲気があり、従来の印象批評の本が相変わらず続々出版され、フランス製のヌーベルクリティックとか英米加製のニュークリティシズム、そして日本でも新批評と呼んでいいような本や論考があいついで上梓されたり雑誌に発表されていました。

 つぎつぎに紹介される斬新な手法に興奮したのを覚えています。

 印象批評については忘れましたが、新しいタイプの批評の書き手を思いつくままに挙げれば、ガストン・バシュラール、ジャン・リカルドゥー、ロラン・バルト、ジョルジュ・プーレ、モーリス・ブランショ、マルト・ロベール、ノースロップ・フライ、ウィリアム・エンプソン、I・A・リチャーズがいました。

 新しい批評などと肩に力の入った呼び名とはおそらく関係ない人で、当時翻訳書が出るたびにわくわくした覚えがある書き手は、エーリヒ・アウエルバッハ、グスタフ・ルネ・ホッケ、ジョージ・スタイナー、ミハイル・バフチン、ヴィクトル・シクロフスキー、マリオ・プラーツです。

 文芸批評が専門ではない人たちも文学作品を盛んに論じていました。たとえば、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダです。そうでした、あの時期には文芸批評だけでなく哲学とか現代思想という言葉がもてはやされていたのでした。

(引用は、ここまでです。)

     *

 なお、ガストン・バシュラールについては、今回のテーマに重なる文脈で次のように書いたこともあります。

 夢語りや夢物語は、太古から受け継がれてきた形式でありジャンルなのです。
 夢は共有できないから、昔々から映像(たとえば絵)や言葉(音声)や文字に置き換えられてきた。つまり、夢語りや夢物語には長い歴史というか長い伝統があるのです。
 人類は、夢語りや夢物語というジャンルを長い時間をかけて学習して今に至ると言えるかもしれません。現在ある「フィクション」や「作品」と呼ばれているもののすべてが夢語りや夢物語の延長上にあるように感じられます。
 夢を絵にすれば、それは絵。夢を言葉(音声)で語れば、それは言葉(音声)。夢を文字で記せば、それは文字。夢を映画にすれば、それは映画。

 夢は夢を引用して夢を模倣し、絵は絵を引用して絵を模倣し、言葉は言葉を引用して言葉を模倣し、文字は文字を引用して文字を模倣し、映画は映画を引用して映画を模倣する。
     *
 これもまたうろ覚えで恐縮ですが、夢あるいは夢想について、確かガストン・バシュラールが翼を例に取り、次のようなことを書いていた記憶があります。
 現実に存在する翼をもちいて飛ぶ鳥のように、人の夢想に登場する鳥以外の空を飛ぶ生物――たとえば人や馬や蛇や竜――が翼をそなえていたとしても、夢想の中では翼を動かして空を飛ぶのではない、とか。
 夢とうつつ(現実)とでは、別個の文法や論理や仕組みが働いている、つまり夢の中では現実で働いている物理的な法則が働くわけではない、というふうに私は理解したのですが、そもそも読んだ記憶が間違っていましたら、ごめんなさい。
(拙文「音もなく動くもの(スクリーン・06)」より)

 もし、引用文にある私の記憶が正しければ、夢想として記述される「翼」は、現実にある「翼」とは別物であり、別の「文法」(比喩)によって動いたり機能していると言っていたのかもしれません。

 同じ「翼」という言葉・文字が当てられている別物であるという意味です。

 かつて読んだバシュラールの本はもう手もとにはありません。私のXのタイムラインには、よくバシュラールのポストが流れてきます。いまは液晶画面上の文字眺めをながめているしかありません。

     *

 この記事を書きながら私の頭にあったのは、かつてその著作の一部は読んだ記憶はあるものの、いまではぼんやりとしたイメージでしかない二人のフランス人なのです。

 漠然とした曖昧なイメージでしかないのですが、そのイメージはいまも私を導いてくれる気がします。

 どんなイメージなのかと言いますと、次のようになります。

 ガストン・バシュラールは言葉のありようの真実を求めて(現実の記述という視点から見れば荒唐無稽とも言える)詩的な文章に接近したのではないか――。

 ジル・ドゥルーズは言葉のありようの実相を探るために(現実の記述という視点から見れば不条理とも言える)文学作品を思索の対象としたのではないか――。

 私は曲解と誤解が得意です。しかも、現在は記憶力がかなり低下してもいますので、以上は私の勝手なイメージでしかありません。

     *

 今回は、「うつす・うつる(写・映・移)」と「線を引く(引・描・書・敷)」と「とおす・とおる(透・通・徹)」のすべてが出てくる面として、川端康成の『雪国』の冒頭に出てくる「ガラス面」を取りあげました。

 同じく三つの要素すべてが出てくるような気がする面としては、

・水面・川面:オフィーリア、ナルキッソス
・鏡面:江戸川乱歩『鏡地獄』、ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』

があります。

 話がかなり広がりそうなので、それらについては、別の機会にお話しするつもりです。

まとめ


 今回の記事はかなり盛りだくさんな内容になったので、いちばん言いたいところだけを以下にまとめます。

 川端康成作の『雪国』というフィクションの描写を、散文の極北である実用文(たとえば科学書)「のように/として」読むのは、この散文の詩的な要素を殺すことになるでしょう。この作品は現実の報告書ではなく文芸作品だからにほかなりません。
 たとえば、小説『雪国』冒頭の汽車の場面に出てくる「ガラス」(フィクションの言葉・文字)は、現実の「ガラス」(事物)でもないし、現実のガラスについての記述(ノンフィクションの言葉・文字)でもありません。
     *
・小説に出てくる「ガラス」:(フィクションに書かれた)言葉・文字
・現実にある「ガラス」:事物
・現実にある「ガラス」についての記述:(ノンフィクションに書かれた)言葉・文字
     *
 以上の三つは別物なのです。別物なのに、まったく同じ「ガラス」という言葉・文字が当てられています。問題はそこにありそうです。
 もし、フィクションである小説の描写を、現実に起こる現象という文脈で読むとするなら、それは現実の報告書ではない文芸作品を現実の報告書だと事実誤認している。つまり、別物どうしを同一視(混同)しているのです。
 まったく同じ言葉・文字がつかれていても、両者は異なった別々の語法と論理で書かれているからにほかなりません。
 
神話と童話と詩と小説を、科学書の語法と論理で読めば混乱します。その逆も、きっと混乱するでしょう。

(つづく)

関連記事

*とおす・とおる(透・通・徹)/うつす・うつる(写・映・移)

*鏡面

*うつす・うつる(写・映・移)/とおす・とおる(透・通・徹)

*面・平面・表面

*スクリーン

*板・盤・版

*線を引く(引・描・書・敷)

*硝子面・川端康成『雪国』

#熟成下書き #面 #平面 #ガラス #川端康成 #雪国 #江戸川乱歩 #鏡地獄 #小説 #文学 #ジル・ドゥルーズ #ガストン・バシュラール  

この記事が参加している募集