短編小説「針目に込めた『大丈夫』」
ただいま……」
玄関の引き戸を開けた律(りつ)の声は、いつもよりずっと小さく、湿り気を帯びていた。 居間から出てきたおばあちゃんは、律の手に握られた黄色い布のかたまりを見て、不思議そうに首をかしげた。それは、入学したときに学校の椅子に取り付けたはずの、ふかふかとした防災頭巾だった。
「おかえり、律。あらあら、どうして防災頭巾なんて持って帰ってきたの? 汚してしまったのかい?」
おばあちゃんが優しく尋ねると、律はぽろぽろと大きな涙をこぼし始めた。ポロシャツの袖で泣き顔をぬぐいながら、必死に言葉を紡ぐ。
「……もう、ひなんくんれん、やりたくないんだもん」
「避難訓練?」
「今日、初めてやったの。いきなり『ウー!』って、すっごく大きくて怖い音が鳴って……先生たちも見たことないくらい怖い顔をして、大きな声で『走るな! しゃべるな!』って叫んで……。学校じゅうが、なんだかピリピリしてて、すごく怖かったんだ」
律は胸に防災頭巾を強く抱きしめた。
「だから……これを持って帰ってきちゃったの。防災頭巾がなかったら、律、ひなんくんれん出来なくなっちゃうでしょう? 出来なかったら、もうあの怖い思いもしなくていいでしょう……?」
幼い律なりに一生懸命考えた「ひなんくんれんをやらない方法」だった。 おばあちゃんは怒ることも笑うこともせず、「そっか、怖かったんだねぇ」と律の頭を撫でた。そして、律の手を引いて居間の座布団に座らせると、温かいお茶をいれてくれた。
「律、おばあちゃんのお話、少し聞いてくれるかい?」
律がこくりと頷くと、おばあちゃんは静かな声で問いかけた。
「避難訓練の音や雰囲気は、どうしてあんなに怖いんだと思う?」
「みんなを……おどかすため?」
「ふふ、違うよ。あれはね、もし本当に大きな地震や火事が起きたときに、どんなに遠くにいる人にも『いま、あぶないよ!』ってすぐに知らせるための音なんだ。先生たちが怖い顔をしていたのはね、大切な律やみんなの命を、絶対に守らなきゃいけないって、心から真剣だったからなんだよ」
おばあちゃんは律の小さな手を包み込んだ。
「本当の災害のときに、初めてあんな大きな音を聞いたら、大人だってびっくりして動けなくなってしまうかもしれない。だからね、前もって『こんな音が鳴るんだよ』『こうやって逃げるんだよ』って体で覚えておくために訓練をするんだよ」
「……練習、なの?」
「そう、命を守るための大事な練習。律、もし本当に地震が来たら、おばあちゃんも、お父さんもお母さんも、律と離ればなれになったらすごく心配だし、悲しい。避難訓練はね、怪我をしないで、またこうやって家族みんなで『ただいま』って笑って会えるようにするために行うものなんだよ」
律はぎゅっと目をつむり、おばあちゃん言葉を心の中でそっとなぞった。 あの怖い音も、真剣すぎる先生たちの顔も、全部自分たちの命を守るためだったのだと知ると、胸の奥のモヤモヤがすーっと消えていくようだった。
「律、ちゃんと逃げる練習、頑張るね。みんなと、ずっと一緒にいたいから」
「えらいぞ、律。自分の命も、みんなの命も大切に思えるようになったんだね」
おばあちゃんはそう言うと、裁縫箱を取り出してきた。
「じゃあ、この防災頭巾に、おまじないをかけてあげよう」
おばあちゃんは黄色い防災頭巾の端に、針と糸でちくちくと刺繍を始めた。律が隣で見守る中、緑色の糸と赤い糸がすいすいと動き、小さな四つ葉のクローバーと、にっこり笑った顔のマークが出来上がった。
「もし、また訓練のサイレンが鳴って怖くなったら、この刺繍をギュッと触ってごらん。おばあちゃんも、お父さんもお母さんも、いつでも律の味方だからね。大丈夫だよって、このクローバーが教えてくれるから」
律は、刺繍されたクローバーを指でなぞった。おばあちゃんの温かさがそのまま宿っているようだった。
翌朝、すっきりと晴れ渡った空のもと。
律は、おばあちゃんが心を込めて刺繍を入れてくれた防災頭巾を大切そうに胸に抱え、ランドセルを背負った。
「行ってきます!」
これからもずっと、大好きな家族みんなと一緒にいられますように――。 そんな願いとクローバーのおまじないを胸に、律の足取りは、昨日とは違って力強くまっすぐ学校へと向かっていた。
