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水の中を走るもの

1979年 水代市怪異調査記録

※本作は、複数の証言、記録および作者による再構成を組み合わせたフィクションです。登場する地名、施設名、人物名はすべて架空のものです。


序章 窓の外に立つ女

 三崎怜奈がその写真を見たのは、七月の終わりだった。

 机の上には、古い封筒が一つ置かれていた。糊はもう乾き切り、角は柔らかく毛羽立っている。差出人の名前はない。封筒の表には、細いボールペンの字で「水代市 みずどり」とだけ書かれていた。

 最初は、廃墟記事の読者から届くいつもの情報提供だと思った。

 地方の事件、失踪、廃業した店、誰も住まなくなった住宅地。怜奈はそういう場所を追って記事を書いてきた。世間が忘れたあとも、土地には噂だけが残る。噂は真実ではない。けれど、真実が失われたあと、人々が何を恐れていたかだけは、噂の中に残る。怜奈はその残り火を拾う仕事をしているつもりだった。

 三十四歳。肩にかかる黒髪を後ろでゆるく束ね、仕事中は化粧も薄い。顔立ちは派手ではないが、初対面の相手が二、三分話すうちに目を合わせたくなるような、静かな強さがあった。笑うと目尻が少し下がる。その表情のせいで、取材相手はつい余計なことまで話してしまう。怜奈自身はそれを魅力だとは思っていなかった。ただ、相手の言葉を途中で奪わず、笑い飛ばさず、分からないことを分からないまま聞く癖が、いつの間にか彼女の仕事の武器になっていた。

 服装はいつも地味だった。洗いざらしの白いシャツに、紺の薄いジャケット。足元は歩き回れる黒い靴。取材鞄には、古いICレコーダー、角の潰れたノート、替えのペン、コンビニのレシート、使い込んだ小型カメラが詰まっている。大手出版社の記者ではない。名前だけで扉が開くこともない。交通費を気にしながら地方へ行き、駅前の安いビジネスホテルで原稿を書き、掲載料が入るまでクレジットカードの明細を見ないふりをする。そんな働き方を、もう七年続けていた。

 それでも怜奈は、この仕事をやめられなかった。

 派手な事件の陰で忘れられた人や、笑い話にされてしまった証言や、誰にも信じてもらえず黙ったまま年を取った人に会うたび、彼女は思う。記事一本で救えるものは少ない。けれど、誰かが真面目に聞いたという事実だけで、少しだけ形を取り戻す記憶がある。怜奈は、その瞬間を信じていた。だから読者の中には、彼女の記事を怖い話として読む者だけでなく、三崎怜奈という記者が次にどこへ行くのかを待つ者も少しずつ増えていた。

 封筒の中には、写真が三枚入っていた。

 一枚目は、川に架かるコンクリート橋を少し離れた場所から撮ったものだった。橋のたもとに、平屋の一軒家がある。看板には、かすれた赤い字で「スナック みずどり」と読めた。店の向こうには、田んぼが広がっている。山は低く、空は広い。画面の隅には電柱が一本だけ立っていたが、街灯は見当たらなかった。

 二枚目は、店の外観を近くから撮ったものだった。壁は薄いクリーム色で、雨垂れの跡が黒く伸びている。窓にはベニヤ板が打ちつけられ、看板の赤い鳥の絵は首から上が剥げ落ちていた。閉店後の写真だろう。撮影日は裏に鉛筆で「平成八年秋」と書かれていた。

 三枚目で、怜奈の手が止まった。

 それは店内の写真だった。カウンター、四つの丸椅子、壁際の小さなカラオケ機。天井から垂れた裸電球は写っているが、灯ってはいない。フラッシュで撮られたらしく、近くの灰皿だけが異様に白く光っていた。

 問題は、奥のトイレのドアだった。

 ドアは半分開いていた。その向こうに、小さなすりガラスの窓がある。窓の外側は黒い。夜の田んぼか、川の土手か、それともただの闇か。そこに、白い楕円形のものが写っていた。

 人の顔ではない。少なくとも、その写真だけでは顔と断定できない。だが、白いものの下端には、わずかに影があった。口元を覆う布のようにも見えた。

 怜奈は写真をスキャンし、拡大した。

 画素が荒れ、輪郭は崩れた。それでも白い楕円は残った。いや、拡大すると、奇妙さは増した。窓の向こうから覗き込んでいるなら、白いものは屋外の暗がりに溶けるはずだった。ところがそれは、ガラスの表面に乗っているように見える。さらに言えば、ガラスの外ではなく、撮影者と同じ室内側に反射しているようにも見えた。

 白いマスクをつけた女が、撮影者の背後に立っている。

 そう見えてしまった瞬間、写真全体の温度が下がった。

 怜奈は椅子にもたれ、視線を外した。パソコンの黒い画面に、自分の顔が薄く映った。寝不足の顔だった。取材の締切が二本重なり、昨夜は三時間しか眠っていない。だから見間違えたのだと考えた。

 それでも、写真の白いものは消えなかった。

 封筒には、短いメモも入っていた。

「 昔、水代の橋の横にあったスナックです。トイレの窓の外に、女が出ると言われていました。解体前に撮った写真です。今は太陽光パネルになっています。あれは口裂け女だったと、母が言っていました」

 最後の一文だけ、筆圧が少し強かった。

 口裂け女。

 怜奈はその名前を見て、反射的に眉を寄せた。古すぎる、と思った。怪談としては有名すぎる。テレビや映画や漫画の中で、何度も消費された怪物だ。白いマスク、長い髪、「私、きれい?」という問い。答えると、マスクの下の裂けた口を見せられる。

 しかし、怜奈が興味を持ったのは、怪談そのものではなかった。

 水代市。橋のたもと。田んぼの中に一軒だけ建っていたスナック。太陽光パネルに変わった跡地。トイレの小窓。写真に写った白いもの。

 噂は、土地に根を張る。どんなに有名な怪談でも、その土地で語られるときには、その土地の湿気を吸う。水代の口裂け女は、都会の路地裏に立つ女ではない。学校帰りの子どもが通る農道と、街灯のない田んぼと、鉄格子のある病院の記憶をまとっているのかもしれない。

 怜奈は、封筒の消印を確認した。市内局のものだった。差出人はやはり書かれていない。

 翌日、彼女は水代市立図書館へ行った。

 郷土資料室は、二階の奥にあった。冷房は効いていたが、古い紙の匂いは消えていない。怜奈は職員に尋ね、昭和五十四年前後の地方紙の縮刷版を出してもらった。水代市で口裂け女の噂が流れた時期を調べたい、と言うと、職員は少しだけ顔を上げた。

 「また、その話ですか」

 「また?」

 「たまに来るんです。昔、見たとか、学校で騒ぎになったとか。だいたい同じ年代の方ですね」

 職員は笑わなかった。迷惑そうでもなかった。ただ、慣れている声だった。

 怜奈は縮刷版をめくった。児童の帰宅指導、不審者への注意、夜道を一人で歩かないこと。数行の記事に、あの時代の不安が薄く貼りついている。全国紙に載るほどの事件ではない。けれど、町の中で子どもが怯え、親が戸を閉め、教師が下校班を組み直す程度には、確かに何かが起きていた。

 夕方、怜奈は情報提供者の母だという女性に会った。小松千鶴。七十代前半。かつて「みずどり」で働いていたという。

 喫茶店の窓際に座った千鶴は、写真を見るなり、顔色を変えた。

 「これ、あんた、どこで」

 「封筒で送られてきました。ご家族の方からだと思います」

 「やめとけばよかったのにねえ」

 千鶴はそう言って、スプーンでアイスコーヒーをかき回した。氷が小さく鳴った。

 「あの店、トイレの窓の外には立てないんです。すぐ下が用水でね。雨の日なんか、土が崩れて危ないくらいだった。酔ったお客さんが、窓の外に女がいたって言っても、みんな笑ってました。酔いが回って、自分の顔でも見たんだろうって」

 「女は、マスクを?」

 千鶴はすぐには答えなかった。店内の別の客を見て、声を落とした。

 「最初に言った人は、白い布みたいなのをしてたって。別の人は、口が裂けてたって。私ね、そのときは、話が混ざったんだと思ってたんです。あの頃、子どもたちの間で流行ってたでしょう。口裂け女。みんな怖がってたから」

 「実際に、千鶴さんは見たんですか」

 彼女は首を横に振った。

 「見てないことにしてきました」

 怜奈はペンを止めた。

 「してきた?」

 千鶴は写真のトイレ窓を指で押さえた。爪は短く、少し白く濁っていた。

 「あの窓、外を映すんじゃないんです。店の中を映すんです。夜になると、ちょうどカウンターの奥が見える。だから、そこに女が写ってるなら、外に立ってたんじゃない。中にいたんです。撮った人の後ろに」

 喫茶店の窓に、夕方の道路が映っていた。車が一台通り過ぎ、その光がガラスを横切った。

 怜奈は、もう一度写真を見た。

 白いものは、窓の外にいるのではない。撮影者の背後に立っているものが、窓に映っている。そう思った瞬間、店内のすべての影が、誰かの居場所に見えた。

 「水代の子どもたちは、どこで最初にその女を見たと言っていたんですか」

 怜奈が尋ねると、千鶴は長く息を吐いた。

 「病院ですよ。県立の療養病院。あそこの二階の窓。鉄格子の向こうに、マスクの女が立ってたって」

 その言葉を聞いたとき、怜奈はまだ知らなかった。

 この取材は、古い怪談を掘り起こす作業ではない。水の中に沈んでいたものへ、もう一度名前を与える作業になる。

 名前を与えられたものは、戻ってくる。

取材ノート

 怜奈はその夜、写真の送り主を探そうとして、封筒を何度も裏返した。差出人欄は空白で、封の仕方にも特徴はない。だが、古い写真をそのまま送ってくる人間には、たいてい二つの動機がある。一つは、忘れられるのが怖いこと。もう一つは、自分だけが覚えているのが怖いことだった。

 彼女は封筒の匂いを嗅いだ。紙の匂いの奥に、押し入れの湿気と、古いアルバムに挟まっていた写真の匂いがある。これを送った人間は、偶然見つけたのではない。何度か迷い、出すか出さないかを考え、最後に名前を書かずに送ったのだろう。

 怜奈は情報提供のメモを、取材ノートの一ページ目に貼った。その下へ、まず三つの問いを書いた。

 「なぜ、今送られてきたのか」

 「なぜ、スナックの窓なのか」

 「なぜ、口裂け女と結びついたのか」

 書き終えると、三つ目の問いだけが妙に浮いて見えた。口裂け女という名は、あまりにも有名で、あまりにも便利だった。白いマスクの女を見た、と言うより、口裂け女を見た、と言う方が伝わりやすい。恐怖には、共有しやすい名前が必要なのだ。

 しかし、名前は恐怖を小さくするとは限らない。

 名前をつけることで、見たものは説明されたように見える。だが同時に、まだ見ていない人間の頭の中にも、同じ形を作る。怜奈自身、写真の白いものを見た瞬間から、マスク、長い髪、裂けた口という記号を勝手に補っていた。補ったのは、写真ではない。自分の記憶であり、世間に残っている怪談の型だった。

 その夜、怜奈は資料室で複写した新聞記事の見出しを読み返した。昭和五十四年当時の新聞は、噂を追いかけながら、同時に噂へ形を与えていた。子どもたちの証言、想像図、地域差、逃げ方。記事は不安を鎮めるために書かれたのかもしれない。だが、印刷された時点で、噂は紙の身体を持つ。

 ならば、自分がこれから書く記事も同じではないか。

 怜奈はノートを閉じた。窓の外では、夜の道路を車が一台通った。ライトがカーテンの隙間から入り、机の上の写真を一瞬だけ白く照らした。

 トイレの小窓の白いものが、その光に合わせて、少しだけこちらを向いたように見えた。

写真の裏書き

 三枚の写真のうち、怜奈が最後まで気にしたのは、実は三枚目ではなかった。

 一枚目の裏にだけ、鉛筆で小さく「まだ店があった頃」と書かれていた。撮影年はない。筆跡は、封筒のメモとは違う。もっと古い人の字だった。おそらく、写真をアルバムへ貼る前に誰かが書いたのだろう。

 まだ店があった頃。

 その言い方には、場所が失われる前の安堵がある。店が営業していた頃、そこは人の声がする場所だった。酒の匂い、カラオケの音、車のライト、橋を渡るエンジン音。田んぼの中に一軒だけ明るい建物があることは、むしろ安心だったはずだ。

 怪談は、廃墟になってから強くなる。

 しかし、怜奈はそう単純には考えなかった。営業中の店にも、暗い窓はあった。人の声がしている場所ほど、誰もいない隙間が目立つ。カウンターで笑っているとき、トイレへ一人で立つ。明るい店内から、用水に向いた小窓を見る。その瞬間、店の明るさは背後に回り、窓は外ではなく自分の後ろを映す。

 人は、暗闇そのものより、明るい場所の端にある暗闇を怖がる。

 怜奈は、その一文をノートに書いた。

 この物語も、そう始めるべきだと思った。




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