ジャンルにふさわしい言葉で 「別人格を演じる」
「よかった。彼が死んでうれしい」(Good, I'm glad he's dead.)
先日,トランプ大統領が,元連邦捜査局(FBI)長官ロバート・マラー氏の訃報に際し,SNSに投稿した言葉です。故人に対するあまりに無神経な発言。大統領としての言葉選びの不適切さは常々批判の的となっていますが,今回ばかりは,許容範囲を大きく逸脱している。今,アメリカでは,この品性を欠いた発言が物議を醸しているようです。あまりの品格のなさに,「あなたはメンタルヘルスを検査してもらった方がいいんじゃないか?」と,ある記者から辛辣なコメントをもらっていましたね。

相手が誰であろうと,身内か他人か,味方か敵対者かに関係なく,故人の死を悼むのではなく,無神経な言葉で祝福するというようなことはあってはならないことです。私たちは,そうした倫理観や道徳観を身につけた人を「成熟した大人」と呼んできました。そして,そうした感覚を備えた人は,場面が変わるごとに,その場にふさわしい適切な技法でコミュニケーションを取ることができる。つまり,ジャンルに応じて,人格の使い分けができる。異なる人格を演じることができる。こういう人のことを「成熟した大人」と私たちは呼んできたのだと思います。
発達段階にある幼児には,こうしたジャンルに応じたコミュニケーションの使い分けができません。幼児にとって,世界はまだ「自分」と「それ以外」が未分化で未文節な状態だからです。しかし,成長するにつれて,相手によって自分が発したメッセージに対する受容感度が異なるらしいことに気づくようになる。コミュニケーションを円滑に進めるためには,相手に応じて文構造や語彙の選択,トーンや発声を変えたほうがいいらしい,ということを学習していく。たとえば,同世代の友達に語りかける言葉と,学校の先生に語りかける言葉は,異なる「ジャンル」に属することを学習する。母親に向かって語りかける言葉と,父親に向かって語りかける言葉は,一見同じ「ジャンル」に属するように見えるけれども,完全に同じテクストではないものとしてカテゴライズしていく。これこそが「ジャンルの技法を学ぶ」ということです。言い換えれば「場面に応じて別人格を演じる」「〜のふりをする」ということです。
しかし,最近は,「別人格を演じる」ことや「〜のふりをする」ことが,かえってネガティブに捉えられる風潮があるのでしょうか。「政治家らしくふるまうこと」とか「教授らしくふるまうこと」が偽善的であると考える人が出てきた。「素の自分」を「ありのままに」正直にさらけ出すことこそが誠実な生き方なのだ,という価値観です。 その結果,社会的地位のある公人であっても,「どこにでもいそうな隣のお姉さん」や「立ち飲み屋にいる普通のおっちゃん」のようにしか見えない,そんな人物が若者を中心に支持を集めるようになった。トランプ大統領の登場以降,この傾向はより顕著になったように感じます。知性においても品性においても,自分と同じレベルの人間が自分たちの代表として公人になるべきものだという新しい形のロジックです。大学生のみなさんも,そうした親しみやすい政治家とか,近所のお兄ちゃんやお姉ちゃんのような教員に魅力を感じるかもしれませんね。そういえば,私も,遠い昔に予備校で英語を教えていた若手の頃,「隣のお姉さんによる英文読解」とかいうキャッチフレーズを紹介文の中で使われていました。威厳がなかったし,「先生」という別人格を演じきれてなかったからでしょう。
しかし,「いつでもどこでもどんな場面でも素の自分のままで,ありのままの姿を」という価値観が浸透した社会では,成熟した大人が育たないでしょうし,複雑なことを複雑なまま見ようとせずになんでも単純化してしまうような社会につながってしまうんじゃないか。そんなふうに思うことがあります。そのような社会では,「ある場面においての私」と「別の場面での私」というものを切り離す能力は育たない。「学級崩壊」というような事態は,本質的には「教室という虚構の場にいる私」と「教室の外という別の世界にいる私」を適切に分離できない,コミュニケーション技法の欠如から生じているのではないかと私は考えています。
これと関連して,数日前,電車の中での出来事なのですが,私は韓国語のリスニング練習のためにイヤホンをつけていたのですが,隣にいた女性が,何やら私に一生懸命話しかけているんですね。よく見ると,別の研究科に所属する,顔見知りの大学院生さんだったのですが,私がイヤホンをつけて何かを聴いているらしいことはお構いなしに,延々と自分の近況について語り続けているんです。最後には,ご自身が最近刊行したという論文の抜き刷りまで渡されてしまいました。・・・なんでこんなことをするんだろう,と思いました。この唐突なコミュニケーションの技法のために,私の韓国語学習は中断させられたのです。そして,特にこちらが主体的に求めていなかった近況報告を聞かざるを得ない状況に引きずり込まれました。これもまた,「場面に応じたコミュニケーションの技法」と「ジャンルに応じた演技」が欠如した結果生じた事例だと思いました。こうした場面では,成熟した大人であれば,「相手は今イヤホンをしているから,話しかけるのは控えよう」という判断が働くはずです。そして,今どうしても話したくて仕方ないという衝動があったとしてもそれを抑えた上で,「話しかけない自分を演じる」ということができるんだと思います。トランプ氏の発言も,学級崩壊も,この大学院生さんのふるまいも,根底にあるのは共通しています。それは,「限定された『私』という人格を,その状況に応じて便宜的に演じる」訓練の不足です。
この春,大学に入学した皆さんの中には,「高校までとは違う自分」を演じて「大学デビュー」をしようと考えている人もいるんじゃないかと思います。私は,それは非常に素晴らしい心構えだと思っています。「大学デビュー」という言葉は,日本社会では時にネガティブな評価を受けて揶揄されることがあるかもしれませんが,その本質は,「場面に応じた適切なコミュニケーションの技法を模索する試み」です。その試行錯誤こそが,人間のコミュニケーション能力をより高度な次元へと引き上げてくれるんだと思うんですよね。 だから,どうか自信を持って,誇りを持って,「大学デビュー」を果たしてほしいと思っているんです。授業,アルバイト,サークル,スーパーでのお買い物,下宿先の大家さんとのやりとり,ご家庭でのご両親との会話などなど,それぞれの場面で異なる人格を演じればいいんだと思います。ある時は「ヘラヘラした自分」,ある時は「意識の高い自分」,別の時は「可もなく不可もなく普通の自分」・・・多様な「〜のふりをする」,多様な「人格を演じて使い分ける」こと。これが,大人になるということなのだと私は思います。
