「正論」しか通じない関係は...切ない。
「何故あんな事をしてしまったのだろう」
自分を客観視できる人ほど、ミスをした時に自分を責める。
それは仕事かもしれない。
プライベートかもしれない。
そして何故そんなミスをしたのか、理由を探す。
次への対策を立てる。
それをなんの苦もなく自己完結できる人間もいる。
しかしそんな強い人ばかりではない。
虚勢ではない強さを持つ人ばかりではない。
悩み、苦しみ、救いを求める人もいる。
あなたにはそんな心の叫びに、耳を傾けてくれる人はいるだろうか。
「正論」という言葉のイメージは近年下降気味である気がする。
「正論を言う人」と表現されれば、
「理屈っぽくてめんどくさい人」のようなニュアンスが含まれると感じる。
もちろんプラスの文脈で使われることもあるとは思うが。
「常に正しい人」
そんな人間がいるだろうか?
この変化を続ける世の中で。
「正論」とは
道理や論理にかなった、筋道の通った正しい意見や議論のこと。
誰が聞いても矛盾がなく、道徳やデータに基づいている。
という意味を持っているらしい。
ではイメージが下降していくのは当然かもしれない。
何故なら「矛盾の無い人間はいない」からだ。
そもそも「正論」の定義が人間の本質に反している。
「誰が聞いても矛盾がなく、道徳やデータに基づいている。」という状況は奇跡的だ。
どの要素も不確実性を排除出来ない。
データすら出所まで明らかにして確実性を得ることは期待薄だろう。
そのデータを信じるかは「信用」に基づいている場合も多々ある。
「人間の感覚によるものに唯一絶対の正解は存在しない」
と以前に書いた。
それを「正」と仮定するなら、「正論」とはそもそもが幻想的な意味合いを含んでいる。
誰しもが認める「道徳」や「ルール」は無い。
多数決だ。
そこにどれだけの説得力があるかで賛同の割合が決まるだけだ。
「誰に非難されても、罰せられたとしても構わない」
という考えの人間を止めることは基本的に出来ない。
実力行使しかない。
いかに「対話が出来る」という営みが成立することが尊いことか。
「話が通じない」というのは、実はかなり恐怖を内包している。
「コミュニケーション」は人間関係の土台だ。
「価値観」の相違も、その土台の上で明らかになる。
コミュニケーションが叶わなければ、動物だろうが宇宙人だろうが人間だろうが大差無い。
「正論」が常に有用な世界は、人類全てが「まとも」であることが前提になる。
残念ながらそれは夢物語だ。
そんな世界で弱っている時。
「何故あんなことをしてしまったのだろう」
自分で自分を責める時。
自分を見つめて、何が問題かなんて分かっている。
そんな時に「正論」は刃になる。
ただ愚痴を聞いて欲しい。
ただ慰めて欲しい。
相手のためになる事とは、
相手が世界に認めてもらう理由を常に与えることではない。
間違っていたら指摘してあげるのも優しさではある。
しかし相手が間違いを認識していないとは限らない。
「刃」がどこに向いているか。
それを見極める必要がある。
「人間の本質」について考えてきた。
しかしそれをいついかなる場合も、いかなる相手にも通用する「論理」として適用しようとは思わない。
時にはそれと「矛盾」してでも、相手に寄り添いたい時もある。
綺麗ごとに聞こえるかもしれない。
しかしそれも視点次第だ。
世界を救うか、恋人を救うか。
どちらを取ってもその精神は結局「綺麗ごと」だと非難されるだろう。
であればあなたならどちらを選ぶだろうか。
「目」を養っておいた方がいいと書いた。
その時はもしかしたらいつか来るかもしれない。
あなたの愚痴を黙って聞いてくれる人。
常に味方でいてくれる人。
そこに「打算」がないとは言い切れない。
私が書いてきたことだ。
しかし逆に言えば、その「打算」がどこにあるか。
あなたに落ち込んで欲しくない。
あなたと楽しい時間を過ごしたい。
あなたにもっと好きになってもらいたい。
これも視点によっては「打算」だ。
しかしその姿勢が大事であるとも書いてきた。
「ネガティブ」も「打算」も「綺麗ごと」も、常に敬遠される感情ではない。
その意識の底には、何かを願って叶えたい、その精神が宿っているかもしれない。
少なくとも、もしあなたに「目」が備わっていて、奇跡的にそんな人が近くにいるならば、それはかけがえのないことだろう。
そしてもっと大事なのが、あなたもそれを返してあげられるか。
「対話が成立する」ことは当たり前ではない。
それは思っているより貴重なことだ。
「正論」が常に必要かどうか。
「矛盾」を過度に恐れないこと。
もしそれらを言い訳と思うなら、それはたぶん疲れている。
「正論」しか通じない関係は...切ない。
