掌編小説|同期だから
「バグ、修正出来た?」
「ごめん!まだ出来てない」
同期はくしゃっと顔の中心に皺を作る。その笑顔に、俺は自分の舌先を上顎に強く押しつけ、あと少しで音が鳴る直前で離した。ポケットに押し込んでいた右手の爪先が手のひらにめり込む。
彼のPC画面は、十分前からサイトのトップページから動いていない。
「……もう、時間ないし俺やるわ」
「まじ?助かる。今度奢るから。いい店あんねん」
「ああ……」
「女の子の店!」
「ふーん」
隣から弾んだ声が鳴り続けるなかバグの修正を終え、後輩とランチに出た。カレーが届くまでの数分間、後輩が息を長く伸ばす。
「今日も先輩が仕事代わってましたよね?」
「まあ、うん」
「大した努力もしてないのに、なんで先輩じゃなくてあの人が出世コース……」
向かいで後輩が水を一気に飲み干した。グラスの水滴が、一粒ずつ落ちる。その動きが妙に規則的で、思わず口角が上がった。
店員が目の前にカレーを置く。香辛料が鼻腔を刺激すると、途端にお腹が音を鳴らした。
「最近、抜きすぎではあるな」
俺はテーブルに落ちた水滴を指で押しながら「同期やから悪く言いたくないけど」と付け足す。皿の上で、トッピングのソーセージの皮が、ぷつりと裂けた。
翌日。職場のドアを開けると、青灰色の曇った空が社内の空気をもじっとり湿らせていた。
「お前は最近緩みすぎや!」
息巻くマネージャーの前で俯く同期。昨日まで温度の高かった瞳からは、熱がすっかり引いていた。
「以後気を付けます。申し訳ございません」
息の多くなった同期の声が鼓膜の奥に張り付く。
静かすぎる社内で、みんなのPC画面だけが順に色をつけていく。
後輩のデスクに視線を移すと、一瞬だけ目が合い、すぐに逸らされた。瞬間、自分の背筋に生温かい汗が一滴流れる。
べつに……そこまでしなくてもよかったのに。
「昇進の話、ちょっと考えるから」
マネージャーの言葉に、同期の両肩から力が抜けていく様子を視界の端で捉えた。それを合図に、あちこちでタイピング音が鳴り始める。
彼が隣の席に戻ってくるなり、キーボードを打つ手が止まる。気づけば俺は口を開いていた。
「ここまで言われると思わんかったな」
「まあ、な」
「今日の仕事、急ぎのやつあったら、俺やっとくけど」
「……いや、悪いから。自分でやるよ」
窓の外では、予報通りの時間に振り出した大粒の雨が地面を黒く染めていく。けれど、ふと覗いた彼の横顔は、酷く静かだった。少し潤んでいた瞳が、徐々に乾いていく。冷めたカレーみたいだと思って、すぐに打ち消した。
「……その空気きつ。夜、言ってた店行く?」
俺がそう聞くと、マウスに置かれていた彼の指先がぴくりと一度だけ動いた。
「昨日のバグ、直ってなかったらしい」
彼はマウスから手を離し、背もたれに背中を押し付けた。それだけで、今、何を思ったのか分かってしまう。同期だから。
昨日、俺が直したはずの、あの青い画面が頭をよぎる。喉の奥が、ヒリリと冷たくなった。
何も答えない俺の隣で、彼は続ける。
「……ちゃんとやるわ」
「いや」と言いかけて、やめる。
彼の指先がもう一度マウスに触れ、クリック音がカチリと鳴った。
同期はくしゃっと顔の中心に皺を作る。その笑顔から、俺は静かに目を逸らした。
