【失敗談】校正をAIに丸投げしたら文章が自分っぽくなくなった話|直した後に気づいた違和感の正体
はじめまして、たいきち先生です。25卒の会社員2年目で、本業のかたわらAI×noteを活用し、月30万円の副業収入を継続して達成しています。初めて公開した有料記事では、スキ300以上・購入者約60人・売上約30,000円を達成できました。今日は、執筆ではなく「校正」の工程で経験した、正直かなり恥ずかしい失敗の話をします。
以前、記事を丸ごとAIに書かせて後悔した話をしましたが、実はそれとは別に、校正の工程でも似たような失敗をしたことがあります。執筆はきちんと自分の言葉で書けていたのに、校正でAIに丸投げした結果、出来上がった文章が自分らしくなくなってしまった。今日はその経緯と、そこから学んだ「校正における線引き」について、正直にお話しします。校正という工程は、執筆に比べて軽く見られがちですが、実は記事の最終的な印象を決める、とても重要な工程だと、今は強く考えるようになりました。
校正をAIに任せようと思った理由
きっかけは単純で、執筆を終えたあとの疲労でした。実体験を思い出しながら本文を書き上げるのは、想像以上に体力と気力を使う作業です。書き終えた直後は、正直「もう何も考えたくない」という状態になっていることがよくあります。
そんな状態で、誤字脱字のチェックや、表現の重複の確認といった、細かい作業をもう一度自分でやるのは、正直かなり気が重いものでした。ちょうどその頃、AIに文章を渡せば、誤字脱字はもちろん、読みやすさの観点からも自動で整えてくれるという話を見かけ、「これは使わない手はない」と思い、校正工程をまるごとAIに任せることにしました。
素直に感動した最初の体験
最初にこの方法を試したときは、正直、素直に感動しました。だらだらと書いた文章が、あっという間に整った形で返ってきたからです。読点の位置、文の長さ、言い回しのばらつき。自分では気づかなかった細かい部分まで、丁寧に直されて戻ってきました。「これで校正の手間がほとんどなくなる」と、当時はかなり期待していました。
AIの校正で起きた変化に気づいた瞬間
違和感を覚えたのは、AIに校正してもらった文章を、投稿前に最初から最後まで読み返したときでした。誤字脱字はきれいになくなっている。文法的にもおかしなところはない。それなのに、読んでいて、なんとなく「これ、本当に自分が書いた文章だっけ」という感覚が拭えませんでした。
「癖」が均されていた
最初のうちは、その違和感の正体が、自分でもよく分かりませんでした。文章として明らかにおかしい部分はどこにもないのに、なぜか他人の文章を読んでいるような、微妙な距離感があったのです。しばらく考えて、ようやく気づきました。私の文章には、いくつかの「癖」があります。同じ接続詞を続けて使ってしまう癖、文末を「〜のです」で締めがちな癖、時々あえて話し言葉に近い表現を混ぜる癖。AIによる校正は、こうした癖を、律儀にすべて「正しい表現」に修正していたのです。
文法的には、AIが直した後の文章の方が、明らかに整っていました。それでも、読んでいて感じる「その人らしさ」は、修正前の、多少粗さの残る文章の方が、圧倒的に強かったのです。整っているのに、なぜか物足りない。この矛盾した感覚が、私を強く戸惑わせました。
「正しい文章」と「自分らしい文章」は違った
この経験から気づいたのは、「正しい文章」と「自分らしい文章」は、必ずしも一致しないということでした。文法的な正しさや、一般的な読みやすさの基準は、確かに大事です。誤字脱字や、意味の通らない文はもちろん直すべきです。ただ、その基準を杓子定規に当てはめすぎると、書き手固有の癖や個性まで、一緒に均されてしまいます。
短い文の連続が消えた瞬間
具体的な例を挙げると、以前の私は、感情が高まった場面で、あえて短い文を連続させる書き方をよく使っていました。「驚きました。本当に驚きました。何も言葉が出ませんでした。」というような書き方です。AIに校正させると、この部分は「非常に驚き、言葉を失うほどでした。」というように、1つのなめらかな文にまとめられてしまいました。文法的には何も問題ありません。でも、あの短い文の連続にあった勢いや切迫感は、なめらかな1文に変わった瞬間、きれいに消えてしまいました。
こうした小さな修正が、記事全体のあちこちで、気づかないうちに積み重なっていました。1箇所1箇所は小さな変化でも、積み重なると、記事全体の温度感がまるで違うものになっていたのです。読みやすさは上がっていたはずなのに、読んだ後に残る印象は、以前よりも薄くなっていました。
どこまでが直すべき間違いで、どこからが個性か

この失敗を経て、校正で「直すべきもの」と「残すべきもの」の線引きを、自分なりに整理し直しました。
直すべきものは、誰が見ても明確な間違いです。誤字脱字、文法的な破綻、意味が正しく伝わらない曖昧な表現、事実関係の誤り。こうしたものは、読者の理解を妨げるので、迷わず修正します。
一方で、残すべきものは、書き手それぞれの個性や、あえて選んでいる表現です。多少長い文でも、そこにリズムがあって意図的に選んでいるなら残す。同じ言葉を繰り返すことで強調しているなら、それも残す。話し言葉に近い、崩した表現を意図的に使っているなら、それも残す。これらは「間違い」ではなく、あくまで書き手自身の「選択」なので、AIの一般的な基準で均一に直されるべきではないと、今は考えるようになりました。
この線引きを言葉にしてみると、今となっては当たり前のことのように思えます。それでも、実際にAIに校正を任せていた頃は、この区別を意識できていませんでした。「AIが直したのだから、それが正しい形のはずだ」と、無意識に思い込んでいたのだと思います。今振り返ると、この思い込みこそが、一番の落とし穴でした。
今の校正のやり方

今の校正工程は、AIに丸投げするのではなく、2段階に分けて進めています。1段階目は、AIに「誤字脱字と、明らかな文法的誤りだけを指摘してほしい」と、あらかじめ範囲を限定して依頼することです。表現の言い換えや文の再構成までは求めず、あくまで客観的な間違いの洗い出しに絞ります。
2段階目は、その指摘をもとに、自分の目であらためてもう一度全体を読み返すことです。ここで、AIが「読みにくい」と判断しそうな部分でも、自分の意図があって選んでいる表現かどうかを、1つ1つ確認します。意図がある部分はそのまま残し、単に書き慣れていなくて粗くなっている部分だけを、自分の手で整えます。
この2段階に分けたことで、校正にかかる時間は以前より少し増えました。それでも、仕上がった記事を読み返したときの「これは自分が書いた記事だ」という手応えは、以前とは比べ物にならないくらい強くなりました。校正は、間違いを消す作業であると同時に、個性を守る作業でもあるのだと、今は強く捉えるようになりました。
声に出して読むという確認
もう1つ、今のやり方に新しく加えているのが、校正の最後に「この記事、声に出して読んでも自分が話しているように聞こえるか」を確認する工程です。文字で読んでいるだけでは気づかない違和感も、声に出してみると、驚くほどはっきり分かります。もし読んでいて「なんだか他人が話しているみたいだ」と感じたら、その部分はまだAIの言葉の名残が残っている証拠だと判断し、もう一度自分の言葉に書き直します。
この確認作業を挟むようになってから、校正を終えた後の「自分の記事だ」という納得感が、さらに強くなりました。声に出して読むという、一見アナログな方法が、AIとの付き合い方において、実は一番信頼できる判断基準になっているというのは、自分でも意外な発見でした。デジタルな作業の最後に、あえてアナログな確認を挟む。この組み合わせが、今の自分には一番しっくりきています。
この失敗から学んだこと
この校正の失敗を振り返って気づいたのは、以前の執筆の失敗と、根っこの部分でつながっているということです。執筆を丸ごとAIに任せたときも、校正を丸ごとAIに任せたときも、共通していたのは「AIに任せれば、より良いものになるはずだ」という、無条件の期待でした。
AIは、一般的な正しさや読みやすさを整えることには長けています。それでも、「自分らしさ」という、数値化しにくい部分まで守ってくれるわけではありません。ここを人間が意識して守らなければ、記事はどんどん「誰が書いても同じような」ものに近づいていってしまいます。執筆でも校正でも、どこまでをAIに任せ、どこからを自分で守るのか。この線引きを、工程ごとに考え続けることが、結局は一番大事なのだと、この失敗を通じて学びました。
この学びは、今後もし別の工程で新しくAIの機能を取り入れることがあっても、形を変えずに変わらず適用できる考え方だと思っています。新しい機能や便利なツールが出てくるたびに、「これは自分らしさを守れる範囲で使えるものか」を、まず確認する。この習慣を持てたことが、2つの失敗から得た、一番大きな財産かもしれません。
「自分らしさ」とは何か、を初めて言語化した経験
この失敗をきっかけに、私は初めて「自分らしい文章とは何か」を、真剣に言語化してみることにしました。それまでは、感覚的に「これは自分っぽい」「これは違う」と判断していただけで、その基準を言葉にしたことは一度もありませんでした。
4つの「らしさ」の要素
考えてみると、私の文章の「らしさ」は、いくつかの具体的な要素に分解できました。1つは、感情が高まる場面で短い文を連続させること。2つ目は、断定を避けたい場面であえて「〜かもしれません」を使うこと。3つ目は、話し言葉に近い表現を、要所要所に意図的に混ぜること。4つ目は、同じ言葉をあえて繰り返して強調すること。
こうして要素を書き出してみると、これらは1つ1つを見れば「文法的には整っていない」と判断されてもおかしくない特徴ばかりでした。だからこそ、AIによる校正では、律儀にすべて「正しい形」へと修正されていたのだと、あらためて納得しました。逆に言えば、この要素をリスト化しておいたことで、校正の際に「ここは直さないでほしい」という基準を、自分の中で明確に持てるようになりました。
この言語化の作業自体、決して楽ではありませんでした。自分の文章を客観的に分析するというのは、思っている以上に時間のかかる作業です。それでも、一度きちんと言葉にしておいたことで、以降の校正作業がずっとスムーズになりました。感覚に頼っていた基準を、言葉として持っておくことの価値を、この経験を通じて実感しました。
この作業をしてから気づいたのですが、「自分らしさ」というのは、思っていたよりずっと具体的で、再現可能なものでした。感覚でしか説明できない曖昧なものだと思い込んでいましたが、実際には、いくつかの具体的なパターンの組み合わせにすぎなかったのです。この発見は、校正だけでなく、これから新しく記事を書くときの、大事な指針にもなっています。
校正の失敗は、執筆の失敗より気づきにくい
もう1つ、この経験を通じて気づいたことがあります。それは、校正の失敗は、執筆の失敗よりも気づきにくいということです。
執筆を丸ごとAIに任せたときは、出来上がった文章全体に、はっきりとした違和感がありました。内容そのものが「自分の言葉ではない」という感覚だったので、比較的早い段階で気づくことができました。一方、校正の失敗は、文章の骨格自体は自分が書いたものなので、パッと読んだだけでは「ちゃんと自分の記事だ」と錯覚してしまいます。違和感の正体に気づくまでに、執筆の失敗のときよりも時間がかかりました。
通しで読み返す習慣が安全装置
この気づきにくさこそが、校正における丸投げの一番の怖さだと思っています。分かりやすい失敗であれば、すぐに軌道修正できます。でも、気づきにくい失敗は、気づかないまま何本も記事を重ねてしまう可能性があります。もし今回、たまたま違和感に気づかなければ、私はしばらくの間、知らず知らずのうちに「自分らしさの薄い記事」を量産し続けていたかもしれません。
今振り返ると、違和感に気づけたきっかけは、たまたま公開前にもう一度、最初から最後まで通しで読み返す習慣を持っていたことでした。もしその習慣がなければ、気づかないまま公開していた可能性も十分にあります。公開前に必ず一度、声に出さなくてもいいので、全体を通して読み返す。この当たり前のようで見落としがちな習慣が、実は一番の安全装置になっているのだと、あらためて実感しました。
まとめ
校正をAIに丸投げした結果、文法的には正しくても、自分らしさが消えた文章になってしまった、というのが今日の失敗談です。直すべき間違いと、残すべき個性は違います。AIには誤字脱字や明確な誤りの指摘だけを依頼し、表現の選択は自分の目で最終判断する。この2段階に分けてから、校正後も「自分の記事だ」と言える仕上がりになりました。
もしあなたが今、校正をAIに任せていて、なんとなく仕上がりに違和感を覚えているなら、一度「これはAIが均した個性かもしれない」と疑ってみてください。
具体的な確認方法としては、校正前の文章と校正後の文章を並べて、実際に声に出して読み比べてみることをお勧めします。文字で見ているだけでは気づきにくい違いも、声に出すと、リズムや温度感の変化がはっきり分かります。もし校正後の文章の方が「よそよそしい」と感じたら、それはあなたの個性が均されてしまったサインかもしれません。
校正は、記事作りの最終工程に近い位置にあるからこそ、ここでの判断が記事の印象を大きく左右します。誤字脱字をなくすことと、自分らしさを守ることは、どちらも大事で、どちらか一方を犠牲にする必要はありません。両方を両立させる線引きを、ぜひ自分の言葉で持っておいてほしいと思います。
この線引きは、一度決めたら終わりというものでもありません。書くテーマや文体が変われば、守るべき個性の形も少しずつ、しかし確実に変わっていきます。だからこそ、私自身も定期的に、この線引きの基準を見直すようにしています。固定したルールとしてではなく、少しずつ育てていく感覚に近いものだと、今は捉えています。
この校正の考え方の続き、そして企画・執筆・広報を含めた5工程すべての全体像は、看板記事で詳しく公開しています。よければあわせてどうぞ。
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