黒曜石は人々を招き土器を引き寄せる ~ 長和町の縄文(前編)
長野県長和町の原始・古代ロマン体験館に縄文土器を見に行きました。予想以上に充実した展示で、また色々と考えさせられました。
長和町には黒曜石の原産地である星糞峠があり、縄文時代を通じて産出された信州産の黒曜石は全国に流通しました。大仁反遺跡など長和町にある縄文時代の遺跡は、こうした黒曜石の交易の拠点だったと考えられます。

旧大門小学校の建物を利用しているようです
黒曜石の「町」 大仁反
黒曜石原産地近くのムラ
関東や新潟方面の縄文人が、黒曜石を手に入れようとやって来る場合、千曲川から支流の依田川沿いに入るルートがあります。長和町落合で和田峠方面と分かれ、大門峠への道をとると、まもなく大仁反のムラに着きます。発掘調査では、大量の黒曜石とともに、さまざまな地域の土器が見つかりました。また、大門峠を越えるとすぐに勝坂式土器の本場(茅野市)に出るため、多くの勝坂式土器が見つかっており、影響を与え合っていました。
星糞峠の直近には鷹山遺跡群があり、黒曜石の原石や石器が大量に出土します。しかし原材の採掘址と石器の製作址のみで住居址はなく、土器もほとんど見つかりません。大仁反遺跡は星糞峠から約15kmの距離の河岸段丘上に位置する集落で、黒曜石の採掘・加工・交易の実質的な本拠地のひとつだったと思われます。
星糞峠や星ヶ塔の採掘を行った人びとの集落はどこにあったのか.大竹幸恵はその東部域について「標高1,480mの星糞峠周辺の縄文集落分布の中心は標高800mほどの比較的大きな河川流域にあり,最短でも10㎞以上離れた複数の集落から採掘活動に従事する集団が編成され,雪のない時期に採掘活動に訪れた可能性が高い」とし,大門川・依田川流域の前・中期遺跡である滝や大仁反,明神原がそれにあたるという.
大仁反の集落が各地から交易に訪れる人々に向けて市を開き、鉱・工・商の黒曜石産業を生業の柱としていたとすると、一般的な縄文社会のイメージとはかなりギャップがあります。狩猟採集や原始農耕を営む自給自足の村とは異なる経済を回す、縄文の「町」と呼ぶほうがふさわしいように思われます。(文献[2]では、すでに縄文時代前期に黒曜石の固定的な交換レートが設定され「商人」ともいうべき自由度の高い専業的な黒曜石交易集団によって黒曜石が流通していたという説も紹介されています。縄文時代の「富」である黒曜石は、牧歌的な縄文観を否応なく揺さぶるキーアイテムなのかも知れません)
大仁反遺跡の土器
前編ではそんな大仁反遺跡の縄文土器をご紹介します。図2~4は同じ4g号住居址から出土した土器で、今回取り上げる中では一番古い時期に相当します。図2の深鉢はたぶん新巻類型だと思います。主に長野、群馬、新潟で出土する土器で、焼町土器の古い段階とされています(焼町土器自体はあとでたくさん出てきます)。時期的には縄文時代の中期中葉で、中部高地では勝坂式土器、関東では阿玉台式土器に重なる時期になります。

長和町 大仁反遺跡 4g号住居址(原始・古代ロマン体験館)
甕形の深鉢ですが、頸部のくびれより下の胴部は縦にも横にも区画されず、一本~数本の隆帯が器面を流れ、その端には環状または眼鏡状の突起が付けられます。焼町土器新段階よりも隆帯はまばらで、空白部は地文に縄文が施されます。参考1に新巻類型の例を示します。器形は図2や参考1左のような甕形に限らず、右のような上広がりの円筒形や波状口縁のタイプもあります。

左:長野県東御市 久保在家遺跡(東御市文書館)
右:群馬県渋川市 三原田諏訪上遺跡(渋川市赤城歴史資料館)
図3の深鉢も端に環状突起のある隆帯が見られますが、口縁部に並ぶ円形の区画などは新巻類型とはかけ離れています。いくつかの種類の土器を折衷したもののように思われます。

長和町 大仁反遺跡 4g号住居址(原始・古代ロマン体験館)
上の写真ではあまり目立ちませんが、頸部にやや崩れた斜行沈線の帯が見られ、佐久周辺の地域的な型式である後沖式土器から借用したものではないかと思いました。参考2は後沖式土器の例ですが、斜行沈線が見られずあまり参考にはなりませんでした。

長野県佐久市 後沖遺跡(佐久市文化財事務所)
図4は北陸系の土器で、石川の上山田遺跡と福井の天神山遺跡を標式遺跡とする上山田・天神山式土器です。新潟を経由して長野に入ったと考えられます。器面全体に流れる曲隆線文が特徴です。

長和町 大仁反遺跡 4g号住居址(原始・古代ロマン体験館)
バケツのような形は本場ではあまり見られず、北陸からやってくる経由地で製作された可能性がある。白く軽くて脆い粘土を使用しており、上越~北信で製作された可能性がある。
参考3に富山に隣接する新潟の糸魚川市で出土した上山田・天神山式土器を示します。新潟の火炎土器の起源の一つとされています。

新潟県糸魚川市 六反田南遺跡(新潟県埋蔵文化財センター)
図5、図6は4e号住居址から出土しました。図5は新段階の焼町土器です。図2や参考1と比べて密集した隆帯が器面全体を覆い、縄文は使われなくなります。

長和町 大仁反遺跡 4e号住居址(原始・古代ロマン体験館)
図6は表裏両面に丹色の彩色がある台付浅鉢です。

長和町 大仁反遺跡 4e号住居址(原始・古代ロマン体験館)
本場の浅鉢形土器では、あまり見ないもようと台。特別にあつらえて運ばれてきた品か。焼町式土器の土器作りの人たちは、基本的に浅鉢を作らないため、ほとんどが他所の土器を使っている。
図7は新段階の焼町土器の完成形と言えるような土器です。粘土紐の隆帯と半截竹管によるカマボコ状断面の半隆帯を組み合わせた曲隆線文が器面を覆い、口縁などに眼鏡状突起が付けられます。器面のところどころに刺突文を充填した楕円区画が置かれます。胴部下半は不完全ながら人体文らしき文様が見えます。こうした定型的な道具立てがすべて揃っています。

長和町 大仁反遺跡 4f号住居址(原始・古代ロマン体験館)
小型品。焼町式土器の本場であり、中から大型品も各種そろっている。
図8は初期の加曽利E式土器です。3c号住居址から横倒しの状態で見つかりました。口縁部の楕円状区画に縦の集合沈線が充填されている点は、関東で見られる下総台地型の加曽利E式土器と関係がありそうです。一方で口唇の縁が二重になっていたり、楕円区画の下側の隆帯が持ち上がって上の隆帯につながる点や、胴部の2~3本の隆帯によるクランク文は大木式的な雰囲気もあります。

長和町 大仁反遺跡 3c号住居址(原始・古代ロマン体験館)
図9は初期の曽利式土器です。中部高地では八ヶ岳の西~南麓に広がっていた勝坂式(井戸尻系)土器の後継で、分布の中心は甲府周辺でした。胴部は粘土紐による装飾が盛り盛りで、胴部の半分くらいを覆っています。ただし施文方法はオーソドックスで参考4のような曽利式の本場の土器とほぼ同じに思われます。隆帯による胴部の主文様もU字状の垂下文で参考4と同じく初期の曽利式の基本的な文様です。

長和町 大仁反遺跡(原始・古代ロマン体験館)

左:山梨県甲州市 安道寺遺跡 右:長野県茅野市 棚畑遺跡
図10も曽利式土器ですが、図9と比べると胴部の施文にやや崩れが見られます。本来の曽利式の隆帯は丸い粘土紐を軽く押し付けて貼り付けるか、隆帯の縁をなでて器面になじませる程度ですが、図10では隆帯の脇に沈線を引いて隆帯を際立たせています。隆帯で胴部を区画し、区画に地文の条線文を充填するような形になります。また隆帯が渦巻になるところでは条線文まで渦巻に合わせて角度を変えます。こうした特徴はどうも系統が異なる唐草文土器の施文方法が混じっているようにも思われます。

長和町 大仁反遺跡 3号住居址周辺出土(原始・古代ロマン体験館)
図11は文様があまりない質素な土器で、とりたてて特徴がないので型式はよくわかりません。展示の通りふだんの煮炊きに使われていたのではないかと思います。

長和町 大仁反遺跡 3号住居址周辺出土(原始・古代ロマン体験館)
図12は4単位の中空突起を持つ大木9式土器です。同じ特徴をもつ土器が長野県千曲市の屋代遺跡群から多数出土したので屋代類型とも呼ばれます。大木式土器は東北南部を中心に分布した土器です。新潟が分布圏内に含まれていて、屋代類型は新潟経由で長野に伝わったと考えられ、千曲川流域から群馬にまで到達しています(参考5)。隆帯の渦巻文どうしが連結して網目のように器面に広がる唐草文風の文様や、突起の隆帯が高く薄く三角形の断面になる鰭状隆帯は、大木式の本拠地である仙台湾周辺の土器にも見られる特徴です。

長和町 大仁反遺跡 3号住居址周辺出土(原始・古代ロマン体験館)

左:長野県千曲市 屋代遺跡群 右:群馬県長野原町 林中原Ⅰ遺跡
図13の有孔鍔付土器の造形には強烈なインパクトを感じました。禍々しいラスボス感の漂うダークなオーラをまとっていて、節くれ立った橋状突起や棒状突起はギーガーがデザインしたエイリアンを思い起こさせます。土の中からこんな呪いの壺みたいなのが出てきたら発掘作業の方も相当ぎょっとしたのではないでしょうか。橋状突起の触手のような表現はどういう技法で作ったのだろうと興味深く思いました。図11の日常生活的な土器とは全くの対極にある土器で、最近の初見の土器の中では文句なくナンバーワンです。

集石土壙伴出土器(原始・古代ロマン体験館)

(「大仁反遺跡」[3] 13ページ)
図15は第2期の唐草文土器で、名前に反してまだ唐草文は使われていません。図12の大木9式よりも前の時期、新潟では大木8b式から栃倉式土器という在地の土器が枝分かれしました(東北から伝わったオリジナルの大木式はこれと並行してその後も存続します)。栃倉式土器は沈線の「ハ」の字が連なった綾杉状の地文と、2~3本の平行な隆帯の両端が渦巻になった腕骨文が特徴です。栃倉式土器が新潟から長野の松本盆地に伝わり、唐草文土器(参考6)になります(「大木8b式の変容」[4])。図15や参考6でも綾杉沈線の地文と腕骨文が確認できます。また図15の2単位の大型把手の構造は参考6の土器と共通しています。

長和町 大仁反遺跡 4d号住居址(原始・古代ロマン体験館)

左:長野県安曇野市 ほうろく屋敷遺跡(安曇野市穂高郷土資料館)
右:長野県朝日村 熊久保遺跡(朝日村歴史民俗資料館)
唐草文土器の最盛期には樽形の器形が主流となり、文様は隆帯の大柄渦巻文による唐草文と放射状沈線などの地文があらわれます。図16は移行途中の段階で文様は唐草文ですが頸部がくびれた器形となっています。

長和町 大仁反遺跡 集石遺構付近出土(原始・古代ロマン体験館)
図17は郷土式土器です(「特集 郷土式は成立するか」[5])。郷土式土器は長野と群馬で千曲川流域から浅間山周辺に見られる在地の土器で、唐草文土器から変化しました(参考7)。標式遺跡は小諸市の郷土遺跡です。地文がウロコのように互い違いに組み合った集合沈線で描かれる「鱗状短沈線文」が特徴の一つです。器形が樽形のものは少なく、キャリパー形や図17のようなバケツ形が一般的です(図17は埋甕なのでもっと下の方まであったかも知れません)。口縁部文様帯をもつものが多く、加曽利E式土器の影響と考えられています。

長和町 大仁反遺跡 2b号住居址埋甕(原始・古代ロマン体験館)

左:長野県小諸市 郷土遺跡 右:長野県佐久市 駒込遺跡
図18は、鱗状短沈線文が見られるため郷土式土器とされますが器形は樽形で、唐草文土器と郷土式のボーダーラインにあると考えました。最近、長野の伊那谷に鱗状短沈線文をもつ唐草文土器が多いことに気づき、郷土式との関係が気になっていたところです(参考8)。また図18は2本隆帯による渦巻文や剣先渦巻文に大木8b式の特徴が残っており、図17や参考7よりも古い段階の土器だと思います。

長和町 大仁反遺跡 1c号住居址埋甕(原始・古代ロマン体験館)

左:伊那市 原遺跡(高遠町歴史博物館)
右:駒ヶ根市 原垣外遺跡(駒ヶ根市立博物館)
図19は後期初頭の称名寺式土器で、展示の中では最も新しい時期の土器でした。

長和町 大仁反遺跡 5号集石土壙埋設土器(原始・古代ロマン体験館)
小括
以上、大仁反遺跡の土器をご紹介しましたが、実にさまざまな地域に由来する土器が混在しています。特に中期後葉については、加曽利E式・曽利式・大木式・唐草文系と、東日本の主要な土器型式をすべてカバーしています。また一つ一つの土器を見ても、在地の製作者が他地域の土器を模倣して作ったような崩れた文様はあまり見られません。各地からの搬入品か、その地域の製作者が来て作った正統派の土器が多いという印象です。大仁反遺跡では中期中葉は焼町土器、中期後葉は唐草文土器がおそらく主体の土器ですが、唯一の土器型式を集落のアイデンティティとみなして土器の種類を統一しようとする志向は、一般の縄文の村より弱いかも知れないなどと想像しました。
もっとも、そうしたことを確かめるにはデータがやや不足しています。今回紹介した土器は1986年に圃場整備に伴う発掘調査で出土したものです。その際には集落全体の網羅的な発掘は行われず、東西約130m南北約250mと見積もられた遺跡の範囲のうち約1000㎡、住居址18軒分の調査が行われました。おそらくは住居址数十軒~百軒以上にのぼる規模の集落の大半は手つかずのまま保存措置が取られています。発掘調査からすでに40年が経過しましたが、限定的な調査面積からこれだけの種類と数の土器が出土したことは驚くべきことだったと思います。いつの日にか大仁反の集落の全貌が調査され、黒曜石の町の暮らしがつまびらかになることを夢見たいと思います。
後編では長和町の大仁反遺跡以外からの出土品をご紹介したいと思います。
原始・古代ロマン体験館の皆様に深く感謝いたします。
最後までお読み頂きどうもありがとうございました。
長和町立考古・民俗資料館 原始・古代ロマン体験館
所在地:長野県小県郡長和町大門1581
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は、翌日が休館日)年末年始(12月28日〜1月3日)
開館時間:9:00〜17:00(体験受付は15:00まで)
入館料(現金のみ):大人300円、小・中学生200円、小学生未満無料
参考文献
[1] 長野県立歴史館「進化する縄文土器: 流れるもようと区画もよう」信毎書籍出版センター(2017)
[2] 堤 隆「信州黒曜石原産地の資源開発と供給をめぐって」島根県古代文化研究論集19、1-16ページ (2018)
[3] 小県郡長門町教育委員会「大仁反遺跡」長門町教育委員会 (1987)
[4] 水沢教子「大木8b式の変容(上)」長野県埋蔵文化財センター研究論集1:長野県の考古学, p84-123 (1996)
[5] 桜井秀雄、川崎 保、綿田弘実、藤森英二「特集 郷土式は成立するか」佐久考古通信 (2011)
