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子どもに「主体性」を演じさせていることに気づかない教員は要らない

授業の終わり、ノートを集める場面。

一人の子が提出する直前に、ふとこちらの様子をうかがう。
普段は字も雑で、提出も遅れがちな子だ。
けれど、この日は違った。
急に姿勢を正し、いつもより丁寧な字で一行書き足す。

「先生、これ通知表に関係ありますよね」
確認してから、また書き始める。

教室ではよくある光景だ。
その隣には、いつも真剣に考えているのに手を挙げない子がいる。

ノートの字は雑だけれど、聞けば誰よりも深く考えていることがわかる子もいる。

このときはまだ、どちらが良い悪いという話ではない。
ただの、よくある一場面だ。

教員の評価項目の中に「主体的に学習に取り組む態度」というのがある。

本来は、粘り強く学習に取り組む姿勢や、自分で学びを調整しようとする姿勢を見るためのものだ。
しかし実際の現場では、ノートを出したか、締切を守ったかという「形式的な勤勉さ」で測られがちだという指摘がある。

2025年7月、文部科学省は次期学習指導要領の見直しの中で、この項目を数値評定から外し、所見欄などの記述評価に変える方針を示した。

制度そのものが、変わろうとしている。
教員が子どもの意欲や態度を見取ろうとすること自体は、怠慢でも悪意でもない。

忙しい現場の中で、目に見える行動を手がかりにするのは、子どもの頑張りを見逃さないための工夫として編み出されてきた側面もある。

限られた時間の中で、一人ひとりの内面まで丁寧に見取ることは、簡単なことではない。
しかし、「評価されている」と子どもが気づいた瞬間、その行動の性質は変わってしまう。

主体性の発露だったはずの行動が、主体性を装う演技にすり替わっていく。

そこにあるのは、学びたいという気持ちではなく、評価されたいという気持ちだ。

さっきのノートの子を思い出してほしい。
あの一行は、主体性だったのだろうか。
それとも、主体性に見えるように書かれた一行だったのだろうか。

そもそも、意欲や態度という内面のものを、他者が客観的に数値化しようとすること自体に無理がある。

評価されると分かった子どもは、自分がやりたいことよりも、先生が求めていることを優先するようになる。

それは主体性ではない。
従順さであり、忖度である。

ここを混同したまま評価を続けると、私たちは知らないうちに、子どもに「先生好みの主体性」を演じさせていることになる。

文科省が数値評定から記述評価に変えても、教員が子どもを見て、言葉にするという営み自体はなくならない。

数値がなくなっても、子どもが「先生の目にどう映るか」を気にする構造は、そのまま残るかもしれない。
言葉で書かれるようになっただけで、見られているという緊張感は消えないかもしれない。

主体性を評価しようとすること自体が、主体性を殺す。

制度の変更は入口にすぎない。
本質は、評価する側である教員の眼差しのあり方にある。

私なら、見えている行動で判断する前に、見えていない部分があることを前提に置きたい。

手を挙げなかった子が、実は誰よりも深く考えていたかもしれない。
字が雑でも、頭の中では粘り強く試行錯誤していたかもしれない。

そう思うだけで、ノートの一行に対する見方は変わってくる。

評価されていることを子どもに強く意識させない関わり方を、日頃の様子の中から拾っていきたい。

テストの点数や提出物だけでなく、休み時間のつぶやきや、友達との関わり方にも目を向けたい。

主体性は、見て測るものではない。
見ずに、信じるものなのだ。

教員は評価するまなざしそのものを疑わなければならないのだ。

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