美輪明宏の訃報に際して思う戦後──ヨイトマケの唄が教えてくれた「昭和」
私が「ヨイトマケの唄」という曲の名前を最初に知ったのは、音楽としてではなかった。

何かの文献(もしくはラジオ?)で読んだ「放送禁止歌の金字塔」という文脈だった。日本民間放送連盟が自主規制した楽曲リストの中に、この曲があり、なぜなら差別用語を含むとから、として封印された歌。
そういう知識として、頭の片隅に入った程度だ。

次にこの曲の名前を見たのが、魔夜峰央の漫画『パタリロ!』の中だったというのだから、われながら妙な出会い方をしている。どの回かも、正確な文脈すらも覚えていないが、ギャグとして登場したその名前には「開けてはいけない玉手箱」のような空気が漂っていた。
禁じられているから余計に輪郭だけが際立つ。
実態のない固有名詞が、妙な重力を持って記憶に残った。
1993年頃、桑田佳祐がこの曲を取り上げるという話を耳にした。正確にはAct Against AIDSというチャリティイベントでのソロ披露だったらしい。私はその障りをかすかに聞いた程度だったが、それでもなぜ桑田がこれを、という疑問はしばらく残っていた。
後に知ったことだが、桑田はこの曲に出会った時「ギター1本持って、こたつの向こうの友達に歌う。その時の説得力を、久しぶりに思い出した」と語っている。
サザンとしてもソロとしても、アレンジは緻密になり、サウンドは複雑化する一方だった。その時期に美輪明宏のシンプルな一曲が、桑田の何かを直撃した。
さらに2000年にはフジテレビ『桑田佳祐の音楽寅さん~Music Tiger』でこの曲を歌い、画面には異例のテロップが流れた。
「この唄は、俗に放送禁止用語と呼称される実体のない呪縛により長い間、封印されてきた。このテイクはテレビ業界初の試みである」
──お上の自主規制に正面から風穴を開ける、桑田らしい挑戦だった。
それでも私はまだ、この曲の「全体像」を完全には知らなかった。
合点がいったのは、2012年のNHK紅白歌合戦だった。
美輪明宏本人が、そのステージで、生で、字幕付きで「ヨイトマケの唄」を歌った。その瞬間、私の中でそれまでバラバラだった断片が一本の線に繋がった。
放送禁止の伝説、玉手箱の重力、桑田の挑戦、
そしてこの曲が背負ってきた歴史の重さが、一気に像を結んだ。

「ヨイトマケ」という言葉の来歴
「ヨイっと巻け」──重い槌を滑車で引き上げる際のかけ声が、そのまま職業の俗称になった。
建設機械が普及する以前、地盤を固めるこの作業に従事した日雇い労働者たちを指す言葉だ。東京では「ニコヨン」とも呼ばれたらしい。
日雇い賃金が米二合四勺に相当するという意味の、蔑称だった。
1949年、GHQのドッジ・ラインによる財政緊縮が戦後日本に大量失業をもたらすと、政府は緊急失業対策法に基づく「失対事業」を本格化させた。
公共土木工事を通じた雇用創出だが、そこに集まったのは復員軍人、戦災者、炭鉱閉山で職を失った労働者──そして被差別部落民、在日朝鮮人、高齢者、母子家庭の女性たちだった。
ここで私事を挟む。
私は80年代に大阪へ赴任していた時期がある。
会社で同和研修を受けさせられた。正直に言えば、当初は「なぜ」という気持ちが半分あった。しかし研修を受けて初めて、この問題がこの国においていかに根が深いかを思い知った。
そして大阪市内の担当エリアを回り始めて、さらに驚いた。
同和地区は特定の場所にあるのではなかった。どこにでもあったのだ。そして、差別が、ごく当たり前のように、ごく普通の街並みの中に、地続きで存在していた。その事実が、研修で学んだ歴史よりもはるかに重く、私の中に残った。
差別が貧困を生み、貧困が差別を再生産する──『失対事業』はその悪循環の中に置かれた人々の「最後のセーフティネット」だった。
だが同時に、低位の雇用に留め置くことで、排除を固定化する装置でもあった。救済と管理が、表裏一体になっていた。
1995年の失対事業終了まで、半世紀近くそれが続いたことは、決して忘れてはならない。
長崎の少年が見た地獄
1945年8月9日。
10歳の丸山明宏(後の美輪明宏)は、長崎市本石灰町の自宅二階で宿題をしていた。爆心地からおよそ3.6キロ。閃光と爆音。
そして一人で向かった浦上の惨状──焼けただれた人々が「イズヲクダサイ」とうめき、遺体が路上に転がる光景が、少年の網膜に焼きついた。
この体験が、美輪明宏という表現者の原点だ。
彼女は後年、「原爆の悲惨な光景が歌作りの原点」と語った。彼女の怒りは「戦争をなくせ」という言葉で完結しなかった。
戦争が終わった後も続く貧困、差別、家族の犠牲──そこまで射程に入れてこそ、美輪明宏の平和観だった。
「ヨイトマケの唄」のモデルは、美輪さんの小学校時代の同級生の母親だ。脚が不自由でありながら工事現場で働き続け、早逝した女性。
その息子は周囲からいじめられながらも母の背中に励まされ、やがて高度経済成長を支えるエンジニアへと成長する。
直接的な反戦歌ではない。
だがこの歌の底には、戦争が底辺に押し込んだ人々への、静かで持続する怒りが流れている。長崎で地獄を見た少年だけが書ける歌だと、私は思う。
解禁から、本人の舞台へ
桑田佳祐の「解禁」をきっかけに、この曲は泉谷しげる、槇原敬之、氷川きよし、米良美一らにカバーされていった。そして2012年の紅白、美輪明宏本人による歌唱で、封印は完全に解かれた。
2026年6月20日、美輪明宏、逝去。享年91。
私がこの曲の名前を文献で知ってから、ゆうに40年が過ぎた。
その間、日本は高度成長を終え、バブルを経て、失われた30年に入った。
失対事業は終わり、非正規雇用という名の新しい底辺が生まれた。同和地区はどこにでもあったが、今は「見えない」ことになっている。見えないだけで、なくなったわけではない。
そして令和。その玉手箱はいま開こうとしている。
だが中身は、まだ片付いていないままだ。
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