【短編小説】まだ味がしない
蝉の声が急に頼りなくなった九月最初の月曜日、和菓子メーカー藤乃屋の商品開発室の壁に、飾り気のない紙が一枚貼られた。
『来秋限定商品 社内コンペ/最終審査 九月三十日』
毎年この時期になると貼り出され、開発室の空気をわずかに硬くする紙だった。
桐山葵がそれを見上げていると、背後に人の気配が寄った。振り向かなくても、同期の新藤涼だとわかる。
「今年も出るのか」
「出るよ。三勝三敗のまま来年へ持ち越すのは、どう考えても気持ちが悪いから」
涼は鼻で笑っただけで、自分の作業台へ戻っていった。その背中を見送りながら、葵は妙に気持ちが高ぶっている自分に気づく。入社二年目から毎年このコンペで競い合い、三十を目前にした今でもこれほど張り合ってしまうのは、九割この男のせいだと思うと少し腹立たしかった。
葵は、素材そのものの味をできるだけ残す菓子を作る。余計なものを加えない代わりに、素材が弱ければそのまま負ける。一方の涼は構成が巧みで、食べ進むうちに味が二段、三段と変わっていく仕掛けを平然と入れてくる。好みの違いもあって審査では毎年評価が割れ、二人の順位はたいてい僅差だった。
今年、葵が選んだ素材は無花果だった。
初秋の売り場は難しい。夏の名残と秋の始まりが同じ棚に並び、栗や芋を前面に押し出すには少し早い。その時期の商品なら、強い甘さを持ちながら、どこか水気のある無花果が合うのではないかと考えた。
ところが、試作は七度続けてうまくいかなかった。
無花果は水分が多く、餡と合わせると味の輪郭がぼやける。甘さを補おうと餡を調整し、生地を変え、香りを足してみても、結局は甘さの上に甘さを重ねただけの、締まりのない菓子になった。
九月半ばの夜、葵は試作室に残っていた。
窓を細く開けると、植え込みから鈴虫の声が聞こえてきた。つい先週まで蝉が鳴いていた場所で、もう違う虫が鳴いている。日が落ちるのも少しずつ早くなり、季節だけが先へ進んでいるのに、自分の試作は七回も同じ場所を回っていた。
九時を過ぎたころ、扉が開いた。涼が試作箱を抱えて入ってきた。
「まだいたのか」
「まだいるよ。そっちも同じでしょう」
それ以上は話さず、二人はそれぞれの台で手を動かした。
互いの試作品を覗かないのは、最初に競い始めたころから続いている二人だけの決まりだった。もっとも、覗かなくてもわかることはある。葵の台の脇には使い終えた試食皿が積み上がり、部屋には似た甘い香りばかりが残っていた。
十時半を過ぎ、涼が先に片づけを始めた。
帰り際、彼は葵の台の端に小さな器をひとつ置いた。濃い茶色の餡で、口を近づけなくても焙じ茶の香ばしさがわかる。
「不採用にした試作の残りだ。もう使わないから、捨てるなら一緒だ」
「何、それ」
「見ればわかるだろ」
それだけ言って、涼は試作室を出ていった。
葵はしばらく器を見つめてから、指先にほんの少し取って舐めた。
最初に甘さが来て、そのあとを苦味が追ってくる。強くはない。それでも、その苦味があるだけで、口の中に残った甘さの形がはっきりした。
自分は、足すことばかり考えていたのだと気づいた。
翌朝、葵はいつもより一時間早く開発室に入った。
無花果の皮をすべて取り除くのをやめ、皮ぎわのわずかな渋みを残す。餡の糖度を落とし、その分、下に敷く生地へごく少量の焙じ茶を加えた。
涼が置いていった餡を、そのまま使う気にはなれなかった。
焙じ茶餡にしてしまえば、あいつが出した答えを借りただけになる。それなら負けるのと大して変わらない。自分の菓子にするなら、焙じ茶は主張させず、無花果を支えるところまで退かせたかった。
八度目の試作をひと口食べた。
無花果の甘さが来て、すぐに皮の渋みが締める。そのあとに、何の香りだったのか考える程度の焙じ茶が残った。
葵は窓を開けた。
朝の風が頬に触れた。昨日までと大して違わないはずなのに、少しだけ冷たく感じた。
※
九月三十日、最終審査が行われた。
涼が出したのは、栗と葡萄を重ねた一品だった。口に入れた直後には葡萄の酸味があり、そのあと栗の甘さが広がって、最後には香ばしさだけが残る。
舌の上で秋が一段ずつ深くなっていく。
うまい、と葵は素直に思った。相変わらずずるい構成だが、そのずるさを成立させるだけの技術があるのだから文句は言えない。
葵は、自分の菓子を「初秋果」と名づけた。
無花果の甘さを皮ぎわの渋みで締め、生地にほんのわずかな焙じ茶を忍ばせた、小さな一品だった。
結果は一票差で、葵が上だった。
会議室を出ると、涼が廊下で横に並んだ。
「焙じ茶、使ったな」
「使った。ただし、餡には入れてない。生地の方」
「・・・そう来るか」
「そのまま真似したら、勝った気がしないから」
涼は天井を一度見上げ、短く息を吐いた。
「あの餡、残り物じゃないんだ」
「え?」
「試した中で最後まで残してたやつ。渋みを強くすると栗が負けるから、俺の菓子には使えないって切った」
葵は足を止めた。
「じゃあ、どうして私のところに置いたの」
「お前があんまり下手に迷ってたから」
「下手って何」
「器の山を見ればわかる。部屋もずっと同じ甘い匂いだったし。あれを見たまま帰って、次の日お前がまた同じもの作ってたら、さすがに寝覚めが悪い」
葵はしばらく涼を見ていたが、やがて肩の力を抜いて笑った。
「四勝三敗」
「来年、覚えとけよ」
二人は自動販売機の前で立ち止まり、それぞれ冷たい焙じ茶を買った。
外階段の踊り場へ出ると、風は思ったより涼しかった。日が傾くのも、ひと月前とはずいぶん違う。街の向こうにはまだ夏の雲の名残があり、その上には、薄く高い秋の空が広がっていた。
「秋、来たね」
葵が言うと、涼はペットボトルの蓋を開けながら首を振った。
「まだだろ。来かけてるだけだ」
葵も焙じ茶をひと口飲んだ。
香ばしさと、わずかな苦味が舌に残った。
風には、まだ味がしない。
夏とも秋とも言い切れない、その曖昧さを、葵は嫌いではなかった。
葵は自分のボトルを涼のものに軽く当てると、先に階段を下り始めた。
下の植え込みから、鈴虫の声が聞こえていた。
(終わり)
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