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「怒り」も「理解」も、両方ただ起きている

「もののけ姫」

ジブリの中でも、特に好き。

人物も、背景も、ストーリーも、深掘りしたくなるのは、
やっぱり「もののけ姫」かなぁ。

先日、大阪で開催されてたジブリパークに行ったんだけど、
「もののけ姫」は、どうやら「Now」ではなかった感じ(笑)


でも、そのおかげかな、帰ってすぐに「もののけ姫」を観たくなった。


ここまでも、ここからもあくまでも個人的な感想と考察です。

アシタカとヤックルだ

冒頭から、涙がこみ上げる。

何かが、「私」の中でひろがり、大きくなって
「私」と「世界」の淡いが、立ち上がり

気がついたら、涙が溢れてるのだけど、
この涙は、一体どこから溢れてくるのだろうか


この「もののけ姫」の鑑賞は、
今までと、全然違う・・・全く初めての体験だった。



「怒り」も「理解」も、両方、ただ起きている


人間として、心の中に湧き上がる感情は、どうしても否めない。

それは、人間としての身体や心に起きているであろう、
至極まっとうな反応であると思うし、


「怖いな」とか「悲しいな」とか
「どうしてそんな・・・」とか

怒りや悲しみや、疑問も含めて。


でも、それと同時に

事の背景
そうせざるを得なかったであろう膨大な背景も立ち上がってくる。


追い詰められた環境、育ちだったり、脳の傾向だったり、

そして、ついにそれらがある瞬間に条件が揃って

いや、もう抗えない何かによって『それが起きてしまった』のかもしれない…。




レイヤーというのか、視座とでもいうのか、
それが別なだけで、事は同時に起きている。

例えば、

人間とか社会のレイヤーが1階だとしたら、
そこに、悲しみや憤り、正義感やルールなどが乗っかってて

存在や真理のレイヤーは、また別の階で
そこには、抗えない流れや理、
現象レベルでの連鎖があって


それら別々のレイヤーで起きている全て
(苦しみも、怒りも、抗えなさも、その後の因果も)を

大きな空(背景)として丸ごと包み込んで、ただ見つめてみる


観照




「もののけ姫」のアシタカは、どこを切り取っても

賛成も反対も、裁くこともなく、見捨てることもなく、
ただ起きていることの切なさと全貌をそのまま受け止めている。

そして、「生きろ」と叫ぶ。




私は、心のどこかで、
「こうだったらよかったのに」という思いがでたりする。
悲しみもあり、後悔や怒りもある。

だけど、今、私が気づくのは、
それすらも含めて、「ああ、それも今、ここで起きているんだな」(心の思いが立ち上がっている)と。


非二元的には、「ただ、そうだった」


「悲しんじゃいけない」「怒っちゃいけない」と
心の表面にあがる波をコントロールしようとする必要はなくて、


あぁ、いま心に強い波が立っているんだな

それすらも抗わずに「ただ起きているんだな」
ただ体験のみを、背景というか深層から抱きしめてあげること。


「ただ、そうだった」


この一言に行き着くと、

自分を責めることも、
世界を裁くことも、


きっとすべてが解けて消えていくんだろうな・・・

アシタカ



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ココ | 私と非二元






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