【あがり症|美大中退編3】うららかな春の日に、満開の桜の下で|ふるえるままに、すすめ40
あがり症でHSP気質のうにが、美大受験、大学中退、そしてその後も続いていく日々の中で、変わりたくても変われない、どうしようもない自分を抱えたまま世界を泳いでいく『うに』のイラスト付き連載エッセイです。うまくいかない日も多いけど、うにはうにのまま、ふるえるままに進んでいきます。
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ピンポーン。
祖母の家の玄関のベルが鳴りました。
うにが、祖母宅の玄関の引き戸をガラガラと開けると、そこには、いつものうすら寒いアルカイックスマイルを浮かべた、仕事モードの斉木さんが立っていました。

「うにさん、おはようございます。ご準備はいかがでしょうか」
「おはようございます……えっと、どうぞ……?」
上がってもらうべきかどうか、一瞬迷いながらスリッパを並べようとすると、斉木さんはやわらかく手で制しました。
「いえ。お支度ができるまで、車でお待ちしていますので」
小さな足音がして後ろを振り返ると、もう外出の支度を終えた祖母が、にこやかに玄関まで出てきていました。
「まあまあ、斉木さん。いつも本当にすみませんねえ。奥様はお元気?」
「はい。おかげさまで。大奥様もお変わりなく、何よりです」

斉木さんは、うにに向けるあの寒々しい笑顔よりも、もっとあたたかな親しみのある、やわらかな笑顔で祖母に会釈をしました。
入学式を数日後に控えた、ある、うららかな春の休日でした。
「入学式前に、うにちゃんの受かった大学がどうしても見たいのよ」
祖母のその願いを叶えるために、本当は父が車を出すはずでした。
けれど父は、取引先の重役との接待ゴルフの予定をどうしても動かせず、代わりに斉木さんを運転手として祖母の家によこしたのでした。

祖母は、車の後部座席で大学のパンフレットをめくりながら、いかにも楽しそうに言いました。
「美大なんて、面白そうな人がいっぱいいそうねえ」

祖母の大学教育に対する考え方には、少し独特なところがありました。
「勉強なんてほどほどでいいからね。大学っていうのはね、交友関係を広げるために行くところなの。だから、いろいろな人と関わってごらんなさい」
「う~ん……」
おばあちゃん、それ、うにが一番苦手なやつね……。
「あなたのお父さんなんか、まともに授業なんて出てなかったわよ。卒論だってね、自分はずっと雀荘で先輩たちと麻雀していたの。で、勉強のできる同級生に電話して、書いてもらって出したらしいわよ」
運転している斉木さんの肩が、微妙に震えている気がします。

「……お父さんなら、いかにもって感じだけど」
うにがあきれたように言うと、祖母は、楽しそうに笑いました。
「大事なのは、いざという時に助けてくれる人脈なの。ねえ、斉木さん」
いや、おばあちゃん。
それを斉木さんに振ったって。
斉木さんもまた、父や祖母から何かしらの恩恵を受けてはいるのでしょうけれど、今ここで言われたって、返答に困るに決まっています。
「人脈ねえ……一番苦手だなあ」
うにがため息をつくと、祖母はうにの手を取りました。
そして、表に返したり、裏に返したりしながら、しわしわの手でそっと撫でました。
「大丈夫、大丈夫。とにかく、あんまり思いつめないで、今を楽しむのよ。うにちゃんはまじめすぎるからね。なんでも、楽しんでやることじゃないと、これっぽっちも身につかないからね」
――なんでも楽しみなさい。
これは、常日頃からの祖母の口癖でした。
――なんでも、やるからには楽しんでね。ちょっと楽しくないことも、楽しむ方法を考えてごらん。でも、どうしても楽しくないことは、すぐに辞めちゃっていいわよ。頑張るなんて碌なことがないわ。石の上にも三年なんて言葉があるけれど、あんなのは嘘。三か月もあれば、向いているか向いていないかなんて、すぐわかるからね。向いていることっていうのは、苦労も楽しく感じるものなの。
祖母は、江戸下町生まれの八人兄弟の長女でした。
戦後の混乱の中、なけなしのお金で闇市からヒヨコを買ってきて、それを育て、少しずつ数を増やし、やがて養鶏所を作り上げ、さらに、その利益を不動産に投資して事業を広げ、女手ひとつで家門の礎を築いた人でした。

ちなみに祖父は、商家の三男坊。
競馬と将棋と囲碁とパチンコと車と女遊びをこよなく愛し、徴兵されたものの、現地に派遣される前に終戦を迎え、「人生は短い。いつまた死地に行かされるかわからん。おれは生涯働かないぞ」と宣言して、その信念を貫き通した変人です。
……なんでうちの家系は、こんなに濃いんだろう。
だから祖母の言う「楽しみなさい」は、きれいごとではありません。
本気も本気。ド本気。
ゼロから独力で何かを作り上げる、底力のようなもの。
「人生は、たのしまなくっちゃね!」


うにが小さかったころ、祖母の不動産を長年借りていた会社の社長が、事業に行き詰まり、夜逃げをしなければならなくなったことがあります。
祖母は、その社長から、支払われるはずのない手形を買っていました。
「今まで、一度も滞りなく家賃払ってくれて、ありがとうね。これは送別よ」
そのおじさんは、何度も何度も祖母に頭を下げていました。ちょっと泣きそうな顔をしながら、最後に玄関先で見送るうにの頭を撫でて、出ていきました。
おじさんはインドへ行って修業をし、数年後、有名なカレー屋さんになって再起を果たし、祖母に挨拶に来ました。そのときのおじさんの、晴れ晴れとした笑顔を覚えています。
当時、小学生だったうには、たまたま母が所用でいない夜に、夕飯を食べにおじさんのお店に行ったことがありました。
おいしいカレーと、搾りたてのオレンジジュースを出してくれました。けれど、どうしても代金を受け取ってくれません。それどころか、帰りには祖母へのお土産まで、どっさり持たされます。
「うにちゃん、学校帰りにお腹すいたら、いつでもおいでね!」
ご夫婦そろって何度も誘ってくれるのに、うには、どうにも行きづらくて。
そのおじさんの家には、うにと同世代の兄弟が二人いました。兄の方は、うにが通っていた小学校で生徒会長を務めるような優秀な男の子でした。

学校の人気者の生徒会長と、運動会ではいつもビリで、あまりにもどんくさい自分が、親戚づきあいのような知り合いだなんて、まわりには絶対に知られたくありません。
だからうには、小学校ではいつも、その兄弟と会わないように逃げ回っていたのでした。できることなら、人気者には近づかず、誰の記憶にも引っかからず、ただただ静かに小学校生活を通り過ぎたかったのです。
社交的な人にとって、人脈は武器なのかもしれないけど、実力がともなっていない人間が、分不相応な人脈を持ったところで、悲劇しか生みませんから……。

バレンタインの思い出。
人気者の生徒会長にチョコを渡したい女の子たちの中のひとりが、
うにと生徒会長が家族ぐるみの知り合いだと、何かの拍子に知り、
「お願い。生徒会長にチョコ渡したいから、ついてきて」と頼まれたのです。
別に、仲が良い子でもなく、ただ利用されているだけのような気もする。それでも、弱気なうには断ることができず、(ついていくだけなら……)と、一緒についていきました。
ところが、彼女は、いざ本人を前にして完全にてんぱり、手作りのチョコを差し出しながら、叫んだのです。
「こ、これ! うにちゃんが作りました!」
は?
次の瞬間、その子はダッシュで逃げていきました。
その場に残されたうには、生徒会長とふたりで呆然と突っ立っていました。

「……ちがうよ……?」
「お、おー……」
大人になった今なら、コメディとして話せるのかもしれません。でも、そのときのうににとっては、ほとんど悲劇。
その後、生徒会長からはなんとなく目を背けられるし(いや、いいけど)チョコを渡したかったはずの女の子は、なぜかうにを完全に無視するように(いや、いーけどさ)
うに、何もしてないじゃん……
……いや。何もしなかったからか。
キューピッドになれってか?!
ああ、人脈なんて。

祖母は、大学のパンフレットから顔を上げて、窓の外を見ました。
「おばあちゃん、タイムマシンに乗れるなら、今の時代の十七歳になってみたいわあ」
「ええ。それならタイムマシンじゃなくて、若返りの薬みたいなもんじゃない?」
そう言うと、祖母は楽しそうに笑いました。
うには、祖母が十七歳になって、同じ大学に入学する様子を想像してみました。
祖母なら、きっと初日から隣の席の子に話しかけ、あっという間に親友になっているでしょう。
一週間もすれば、クラスの力学を把握し、一か月もすれば、教授の性格、単位の取りやすい授業、学生課で一番親切な職員さん、学食で本当においしいメニューまで、すべて把握していそうです。
そして半年もすれば、気難しい教授の懐に飛び込んで懐柔し、大学一の情報通になっているはず。
ああ、目に浮かぶ。
そういうところは、祖母と父は本当に血が濃い。やっぱり、人脈づくりというものは、才能だよね。
そしてうにには、その才能はまったく受け継がれていないみたいだよ、おばあちゃん。

祖母は、うにの大学の構内を、にこにこと散策しました。
正門の前で一枚。
校舎を背景に一枚。
芝生の近くで一枚。
斉木さんは、祖母に頼まれるまま、何枚も写真を撮ってくれました。
祖母は、うにの隣に立って満面の笑顔。もう見るからにご満悦でした。
休日に斉木さんに車を出してもらうなんて、正直、気が重かったです。きっと斉木さんから見たら、うには、祖母からも溺愛されているたったひとりの孫娘に見えるんでしょう。
うにに向ける、あのうすら寒いアルカイックスマイルがすべてを物語っています。うには遠い目で、カメラを構える斉木さんを見返しました。
斉木さんの背後にも、見事な桜の花が満開で、風に吹かれて花びらが舞い落ちていました。

……ああ、これ、早めに終わらせなくちゃ。
こんなうららかな春の休日に、満開の桜の下で一緒に写真を撮りたい相手は、上司の家族じゃなくて、愛する奥さんだよね……そりゃもう、なんつーか、申し訳ないのひとことだ。
でもまあ、祖母がこんなにうれしそうなら、まあ、これが正解なんだろうな。そもそもさ、悪いのは、接待ゴルフに行ってる父なんだしな……!
うには、横でニコニコしている祖母を見ながら、ひとまず、そう考えておくことにしました。
つづく!


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※本作は実体験をもとに再構成した創作エッセイです。
大切なお知らせ
本作は実体験に着想を得たエッセイですが、プライバシー配慮のため登場人物・団体・時系列・場所等に創作・合成・編集を含みます。特定を意図していません。ただし、うにが感じた気持ちと気づきは本物です。

