『温かい』ショートショート
宗一郎は、息をしなくなった直人の顔を見つめていた。
胸には一本の矢が深々と突き立ち、その無慈悲な直線は、生者と死者との境界を示す標のようだった。
「…もう、楽にしてやるからな。」
矢柄を握って一息に引き抜くと、直人の屍が一度大きく波打った後、堰を失った鮮血が噴き上がり、宗一郎の頬を濡らした。
その赤は、死という虚無に呑み込まれた肉体から噴き出したものとは思えないほど鮮烈で、まるで生命が最後の意地で自らの存在を世界へ書き残そうとしているかのようだった。
その血は、まだ温かかった。
「この血は、お前が生きた証だ。忘れまい。」
頬に残る温もりが、僅か数刻前の記憶を呼び戻した。
◇
慶応四年、春。鳥羽伏見に端を発した戦火は東へと延焼し、人々は新政府か旧幕府かという、後世から見れば簡潔に整理されてしまう二つの名のもとへ容赦なく振り分けられていた。
しかし、その二文字の狭間には、家族への情や主家への恩義、貧困や恐怖や諦念といった、歴史書には記されにくい無数の事情が泥濘(ぬかるみ)のように堆積していた。
同じ城下で育ち、同じ道場で竹刀を交え、川遊びをしては叱られた宗一郎と直人も、その巨大な亀裂の両側へ引き離された。
幕府と縁の深い家に生まれた宗一郎は旧幕府方へ加わり、母と妹を養わねばならない直人は、藩命に従って新政府方へ身を置いた。
別れる前、直人は言った。
「正しい方につくほど、俺たちは偉くない。自分が捨てられない方に立つだけだ。」
三年後、二人は戦場で再会した。
「宗坊…。」
幼い頃の呼び名が、煙と怒号の入り混じる殺戮(さつりく)の最中に聞こえた瞬間、宗一郎は足を止めた。
振り返ると、泥の中に直人が倒れていた。
左胸には一本の矢が突き立ち、そこだけが残酷なほど明瞭に、彼に残された時間の短さを告げていた。
「…直人!」
「久しぶりだな…。」
「黙っていろ! 喋るな!」
「お前、老けたな。」そう言って、直人は苦痛を押し殺しながら笑った。
遠くから官軍の号令が響いた。
「俺の仲間だ。」直人が言う。
「俺の敵だな。」宗一郎は答えた。
「そうだな…。」
三年前なら互いを救うことを友情と呼べた。
それが今では、友を救えば裏切りとなり、友を殺せば忠義になる。
時代とは、人間の情誼にまで勝手な名前を与え、その善悪を昨日と今日とで容易く反転させる巨大な詭弁なのかもしれなかった。
宗一郎は直人を抱きかかえ、戦場を離れた。
杉林を抜けて谷へ降りるにつれ、怒号も銃声も遠ざかり、官軍と賊軍という言葉までが木々の間へ剥落していった。
やがて耳に届くのは沢の水音だけとなり、二人はようやく歴史から忘れられた小さな場所へ辿り着いた。
欅の根元へ直人を横たえ、宗一郎は沢の水を飲ませた。
「…うまいな。」
「ただの水だ。」
「官軍も賊軍も、同じ水を飲むんだな。」
宗一郎は答えなかった。
人間が国の行方を賭けた一大事だと信じて殺し合う傍らで、水は勝者にも敗者にも頓着せず、石の間を澄明に流れていた。
その無関心な清らかさの前では、人間が掲げる大義など、束の間だけ水面に映って消える雲影ほどのものに思われた。
「宗一郎…。俺はな、怖かった。」
「何がだ?」
「この戦だ。鉄砲も、刀も、人を斬るのも、斬られるのも怖かった。朝が来るのさえ嫌だった。」
宗一郎は直人を見つめた。
幼い頃から直人は、自分より遥かに胆の据わった男だった。
その男の内部にも恐怖という獣が棲みつき、誰にも見えないところで毎夜、心臓をかじっていたのだと宗一郎は初めて知った。
「逃げようと思ったこともある。」
「お前が?」
「ああ。でも、戦場を去っても見つかって殺されるのが怖くて戦場に残り、逃げて裏切者として生きるのも怖くて戦った。俺には、どちらへ行っても怖いことしかなかった。」
直人の目から涙が流れた。
「酒飲んで、飯を食いたい。女も抱きたい。白髪になって、お前と昔話をしたい…。」
「ああ。しようじゃないか。」
二人は笑った。
その笑いは、戦争にも歴史にも属さない、少年の日から取り残されていた二人だけの言葉だった。
しかし、直人の口元から血が流れた。
「本当に、死にたくないな。」
今度は笑ってはいなかった。
死を前にした人間から大義という衣が剥ぎ取られた時、そこに残るものは驚くほど卑近で、それ故に抗い難いほど切実な願いなのだと宗一郎は思った。
酒を飲みたい。飯を食いたい。女を抱きたい。老いて昔話をしたい。
それらは天下国家という巨大な言葉に比べれば取るに足らない欲望でありながら、一人の生命を支えるには、天下国家より遥かに重かった。
「だから覚えていてくれ。俺が怖がっていたことを。死にたくなかったことを。逃げたかったことを。それから、お前は生きろ。」
宗一郎は唇を噛んだ。
「俺の分まで、なんて言わん。俺が死ぬことと、お前が生きることは、まるで別のことだ。俺は俺だ。お前はお前だ。だから生きろ。」
長い悲痛なる無言の静寂の後、宗一郎は頷いた。
「ああ。」
やがて直人の呼吸は浅くなり、生命は潮が遠浅の浜から退いてゆくように、少しずつその肉体から離れていった。
「宗一郎…。」
「ここにいる。」
「そうか。」
「ああ。」
「なら、いい。」
それが最後だった。
◇
それから宗一郎は長く生きた。
ある春の日、年老いた宗一郎は縁側に座り、遠い昔を思い返していた。
彼にとって直人は英雄ではなかった。
勇猛な官軍兵でも、時代のために潔く命を捧げた志士でもなかった。
怖がり、迷い、逃げたいと思い、それでも逃げられず、酒を飲み、飯を食い、女を抱き、白髪になるまで生きたいと泣いた一人の男だった。
だからこそ、宗一郎の中で直人は、歴史に名を残すどの英雄よりも鮮明に生き続けていた。
宗一郎は頬に手を置いた。
あの日、二人を官軍と賊軍に分けたものは、とうに歴史という巨大な河床へ沈み、角を削られた石のように、今では遠い時代を説明する言葉としてしか残っていない。
それでも、宗一郎の記憶の底では、直人から迸(ほとばし)ったあの日の血だけが、歳月という冷たい水にも薄められることなく、今なお鮮烈な赤を湛えていた。
そして、その血はまだ温かかった。
ー 了 ー
