いま、ここ、私。
私は今、ここにいる。
自室のパソコンでこのことばを打っている。
蝉が鳴いている。
猫が鳴いている。
隣の部屋で家人がテレビを観ている音が聞こえてくる。
空は曇っている。
また雨が降り出した。
今、ここにいるから知覚する。
もし、今日、私が旅に出ていたなら、
この蝉の声も、猫の声も、テレビの音も、雨の音も、
聞くことはできない。
ここには、いないから。
その代わり、
旅先での風景を見、
知らない風を感じ、
会うはずもない人とすれ違っているだろう。
そこに私の身体があるのだから。
そこにしか私はいないのだから。
1時間前、テレビののど自慢を観ながら涙した私は、
もうどこにもいない。
6時間前、村の共同作業に出て汗びっしょりになった私も、
もうそこにはいない。
ましてや昨日の欲望に衝かれていた私など、
どこかに消え去ってしまった。
しかし、昨夜の日記には
欲にまみれた男のことばがドロッと射精されている。
この世にことばが生まれた理由は
人がいま自分の身体のあるところのことしか知覚できない
ということを知ったからではないか。
時に10メートル先の通りを曲がった所で
交通死亡事故が起こっていたとしても
気付かない時は、知らないことだ。
知らないことは無いことに等しい。
その事故でどんなに悲しんでいる人がいたとしても。
帰宅後のニュースで、
どこか知らない国の事故のような報道を聞き、
あれ、今日、その時間に俺その辺にいたぞ。
ひとつ間違えたらヤバかったかも…。
と思えばまだいいほうで、
スマホでも覗いていれば、
そのニュースさえ無かったことになる。
愛する人を失った涙はどこにある。
この世界には数え切れない人がいる。
どこかで生き、思い、感じ、動いている。
それぞれの場所で。
その人の身体のある所で。
その数多の人が、
時に繋がりあい、関わりあい、
愛しあい、憎しみあう。
現実世界で、デジタル世界で、仮想世界で。
ことばも、映像も、
過去のどこかの幻か。
ホントの自分はどこにいる。
ホントの私はここにいる。
あなたは、いま、どこにいますか?
