写真を「競技」と勘違いする人たち〜「正解」の罠と表現の自由〜
SNSや写真コミュニティを眺めていると、他人の写真に対して「クオリティが下がった」「まったく駄目」「この程度か」などと、まるで審判のように採点をつける人々に遭遇することがある。
彼らの言葉を観察していて感じるのは、写真を「表現」ではなく「勝ち負けを競う競技」として捉えてしまっているという強い違和感だ。
なぜ彼らは「上手い/下手」の単一軸でしか写真を語れず、自分の正解から出られないのでしょうか。その病理と構造について考えてみたい。
写真を「競技化」してしまう3つの病理
写真を競技にしてしまう人たちの思考回路は、大きく3つの段階に整理できる。
* 「合格ライン(減点方式)」をアートの価値と誤認する
ピントや露出、定番の構図といった基礎技術は、本来「表現の幅を広げるためのツール」に過ぎない。しかし彼らはそれを「絶対的なルール」に仕立て上げてくる。
そこから外れたブレ、ボケ、ノイズ、あるいは独特の文脈を「反則」や「下手」と即座に切り捨ててしまうタイプ。
* 「型(レシピ)」のなぞりとオリジナリティの混同
コンテストやSNSで評価されやすい「定番の定型文」を完璧になぞることを「高得点」と信じ込んでいる人もいる。
しかしそれは過去の誰かが作ったレシピを再現しているに過ぎない、そのことに無自覚なまま「これこそが自分のスタイルだ」と錯覚してしまっているタイプ。
* 他者へのマウントと自己防衛のループ
「自分の方が上手い」「相手は下だ」という相対的な優劣でしか自我を保てないため、自分の写真がコンテストやキュレーションサイトなどで評価されないと「審査員の目が肥えていない」「定型文への媚び要求だ」と周囲を攻撃し始めるタイプ。
「自分ルールの安全地帯」から出られない不自由さ
彼らが他者に対して攻撃的になる根底には、プライドの脆さと客観性の欠落があると思われる。
自分がコントロールできる狭い条件(自分ルール)の中だけで満点を作り出し「完璧な自分」というストーリーを守っているため、そこから一歩でも出ると評価されない恐怖があるのであろう。
しかし写真というメディアの本当の面白さは個人の「技術チェックリスト」を満たすことではなく、写し手の眼差しや文脈が被写体と重なったときに生まれる加点方式の魅力にあると私は思っている。
減点チェックリストの審判として生きることは、自ら表現の自由度を狭めていく不自由な道であろう。
「正解」は日々更新され、果てがない
一見すると、野鳥や野生動物、スポーツなどの「瞬間の切り取り」は、ピントや解像度といった正解がわかりやすいジャンルのように見える。
しかし実際に現場でカメラを構え、被写体と対峙し続けている人ほど「絶対的な正解などどこにもない」と痛感するはずだ。
その場では完璧だと思える一枚が撮れたとしても、次の瞬間には光の入り方や風の吹き抜け、生きもののふとした息遣いによって、また新しい表現の可能性が見えてしまう。
自分の限界が広がるほどに、かつての正解は単なる通過点へと変わり、どれだけ撮っても自分の写真に完璧な自信など持てなくなる。
「自分の写真に自信が持てない」という感覚は、決してネガティブなものではない、それは自分の眼差しが常に変化・成長している証であり、被写体や世界が持つ果てしない美しさに対して謙虚であり続けている証拠だからだ。
スコアボードを捨てて、表現の自由を取り戻す
自分の作った小さな枠組で満点を出し、他者を叩いてプライドを保つ人と、終わりのない表現の先を追い求め、被写体と静かに対話し続ける人。
前者が視線を向けているのは「評価されたい自分」だが、後者が視線を向けているのは「世界そのもの」だ。
写真に正解を求め、勝ち負けの競技にしてしまうのはあまりにも勿体ないことである。
「上手い/下手」「正解/不正解」という狭いスコアボードを一度手放して、その先にある他者の多様なアプローチや、まだ見ぬ表現の余白を面白がれるゆとりこそが写真を息長く豊かに楽しむための確かな軸になるのではないだろうか。
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