見出し画像

「画素密度」という数式が紡いだマイクロフォーサーズへの歪んだ愛

ネットの海を回遊していると、時折非常に興味深いカメラ論評に出会うことがある。
先日目にしたのは、マイクロフォーサーズ(以下、MFT)の「画素密度の高さ」にスポットを当てたとある考察記事だった。

その理論をざっくり要約すると、こんな感じ。
「同じ焦点距離のレンズ(同じ光学系)を使い、同じ位置から被写体(例えば月など)を撮影した場合、画素ピッチの狭いMFTはフルサイズに対して縦横約1.4倍、面積比で約2倍の情報量を記録している。

つまりフルサイズはレンズが結んだ像の情報を「取りこぼして」おり、拡大限界近傍の超望遠撮影においてはMFTが圧倒的に優位である」と要約すると大体こんな感じで一見すると、非常にロジカルに見える。

月の結像サイズを割り出し、センサーの画素ピッチと掛け合わせる。数式の上では完璧に美しく、誰も反論できない「MFTの勝利」がそこには描かれていて、MFTを愛用する身としてはなんとも希望が持てる胸が熱くなるような夢のある話だった。

しかし現場で泥臭くシャッターを切り、常に機材の限界付近で付き合ってきた人間として、私の胸の奥にはその理論にどうしても拭えない「違和感」が残った。

これって都合の良い数字だけを綺麗に並べた、壮大な「机上の空論」ではないか? と。

「数式の楽園」と「現場の泥臭い現実」

この理論が「机上の空論」になってしまう最大の理由は、カメラという道具の最終的な解像度が以下の掛け算で決まるという現実を無視しているからだ。

「最終的な解像度 = レンズの解像力 × センサーの画素密度」

件の検証記事では、マウントアダプターを介してフルサイズ用のオールド大口径単焦点(600mm F4)をMFTのボディに装着して実験を行っていた。なるほど、イメージサークルの「中心の美味しいところだけ」を切り取る贅沢な使い方だ。

だがレンズというものには新旧問わず「どれだけ細かく光を結べるか」という物理的な限界(収差や回折現象)が必ず存在する。

特にフィルム時代に設計されたレンズは、現代のMFTの「3.3μm」という極小の画素ピッチを完全に満たせるほどの、超高精細な光(解像力)を中心部であっても出力しきれないだろう。

つまり、センサー側にいくら細かくバケツ(画素)を並べたところで、レンズから降ってくる光自体がすでにボヤけていたのでは、同じボヤけた光をMFT側が細かく無駄に分割して記録しているだけで、実質的なディテール(実効解像度)は何の優位性も持たないと思う。

さらに言えばMFTの過酷な画素密度は、絞りをF5.6〜F8あたりまで絞るだけで、光の波としての性質によるボケ(回折限界)の影響をもろに受けてしまう。

数式の楽園は、机の上では成立するかもしれないが、野生の撮影環境という現実の前ではあっけなく崩壊する。
実際のところあの極小ピッチに耐え、等倍で見たときに「鳥の羽毛が1本ずつ分離して見える」ほどのカリカリの打率を誇るのは、最初からMFTのためだけに設計された、純正の「PROレンズ」だけではないだろうか。

よく市場で見かける、フルサイズ用の光学設計をベース(あるいはOEM)にして作られた100-400mmや150-600mmといったMFT用望遠ズームが、ユーザーから「なんだか等倍で見ると描写が甘い、解像力不足だ」と言われてしまう構造的な原因もここにあるんだと思う(実際100-400mmは解像力イマイチ)。

フルサイズ基準の解像力を、2倍の密度で無理に引き伸ばせば、レンズの粗まで2倍に拡大されるのは自明の理。実焦点距離的に見ても、MFTで真に実用的なのは150-400mm(換算800mm)のPROレンズまでが限界というのが、現場的な着地点だと思う。

なぜ人はここまでして「机上の空論」を紡ぐのか

では、なぜこの記事の筆者(あるいは一部の熱狂的なMFTファン)は、実際のレンズ性能や実用性を置き去りにしてまで、MFTの優位性を必死に証明しようとするのだろうか。

そこには深く、そして少し「歪んだ愛」が見え隠れする。
カメラ界隈には長年「フルサイズこそが正義であり、センサーサイズが小さいカメラは画質が劣る」という強いフルサイズ信仰がある。

ネットを開けば「ボケない」「暗所に弱い」とネガティブな文脈で語られがちなMFT。システムを愛し、その機動力で素晴らしい写真を撮っているユーザーからすれば、この「センサーサイズだけで全否定される空気感」は非常に悔しいものだ。

だからこそ「フルサイズが絶対に真似できない、MFTが理論上勝っているポイント(=画素密度の高さ)」を数学的に証明することで、フルサイズ至上主義に対して論理的に一矢報いたいという、強いカウンター精神が働く。

あるいは、数十万から数百万という高額な投資をして揃えた自分の機材に対し「自分の選択は間違っていなかった」と脳内で正当化したい、自己防衛の心理もあるのかもしれない。

大気差(空気の揺らぎ)や手ブレ、レンズ収差といった泥臭い現実をすべて排除し、数式の中にだけ存在する「最強のMFT」を作り出して、頭の中でフルサイズを圧倒する。

それは切なくもカメラ乗り特有の愛おしいロマン派の末路、いわば「歪んだ愛」の形に見えた。

僕たちがMFTを愛する、本当の理由

そもそも、フルサイズ用の巨大で重い大砲レンズをMFTのボディに付けて「画素密度が〜」と語るスタイルは、MFTという規格が持つ最大の恩恵をドブに捨てている。

マイクロフォーサーズの一番のメリットは、何と言っても「システム全体を圧倒的にコンパクトにまとめられること」だ。

フルサイズなら総重量5kgを超えるような超望遠システムを、わずか1.5kg前後の軽さでザックに収め、涼しい顔で山奥まで歩いていける。この圧倒的なフットワークと、それによって生まれる「打率の高さ」こそが、MFTが起こす本物の写真の魔法であるはずだ。

ボケ量や低ノイズでフルサイズに勝てないように、望遠の解像力(同じ焦点距離)において、理論だけ並べても実際の所、よほどの条件が整わない限りフルサイズを凌ぐ事は相当難しい。
でも、自分がマイクロフォーサーズを選択する時の理由は解像度より別の理由なのでそれはそれでいいじゃないかと思うが。

スペックシートの数字の勝ち負け、机の上のマウンティング合戦に一喜一憂するのはもうやめて、自分の機材が持つ本当の「健気さ」と「機動力」を信じ、今日も私はフィールドへ出かけカメラという名の「光を記録する機械」のシャッターを切る。

いいなと思ったら応援しよう!

かめんさん 受け取ったお気持ちはすべて作品に変えてお返しします

この記事が参加している募集