【深淵の大魔道士】龍族大侵攻~後編|ファンタジー小説|ラノベ|ライトノベル|長編小説|連載小説
第五幕 深淵の大魔道士、暴走
28.帰る道は、戻ってきた
フラワーの胸元で、透明な石が熱を持った。
布越しに分かるほどの、はっきりとした熱。フラワーは幼い龍を抱えたまま、鎖を引いてペンダントを取り出した。石の奥で、何かが目を覚まそうとしている。
空から銀色の粒が降り始めたのは、そのときだった。
雪のように。花びらのように。音もなく、戦場の上へ降りてくる。
ラビーが顔を上げた。
ハイネも。
傷ついたリンドウも、拘束の解けたセツナも。
戦っていた者たちが、手を止めて空を見た。
一粒が、フラワーの頬へ触れた。
温かかった。
知っている魔力だった。
静かで、少し寂しくて、それでも、いつも誰かを見守っていた光。
「クロエ、さん……?」
耳元で、あの声がした気がした。
『戻れたら、続きを教えます』
約束になれなかった、願い。
フラワーは手を伸ばした。
銀の粒は、指の間をすり抜けていく。
つかもうとするたび、すり抜けて、消えていく。
「こんなの、戻ったことになりません」
声が震えた。
「約束したじゃないですか」
答えの代わりに、一粒が胸元の石へ触れた。
途切れていた門の線へ、細い銀色が流れ込む。
一辺。
もう一辺。
最後の角が繋がり、石の奥に小さな門が完成した。
花と門。
二つの紋様が、初めて重なって灯る。

クロエさんは、戻らなかった。
でも、帰る道は——戻ってきた。
受け取りたくなかった。
これを受け取れば、クロエが戻らないことを認めることになる。
それでも、指は石を握っていた。
離せなかった。
離してはいけないものだと、心より先に手の方が分かっていた。
銀の雨は、フラワーの周りを一度だけ巡り、最後に背中を押すように淡く輝いた。
そして、消えた。
夜が静かになった。
降るもののなくなった空を、フラワーは見上げ続けた。
⸻
29.深淵の蓋
背後で、地面が脈打った。
一度。
二度。
三度目が、来た。
フラワーが振り返ると、ハイネの足元で黒が波打っていた。
石床が音もなく消え、円が広がっていく。
「……止めます」
ハイネが右手を握った。
黒が一瞬だけ縮み——次の瞬間、それまでの倍の速さで広がった。
近くにいた帝国兵が悲鳴を上げて飛び退く。
靴の先が、革ごと消えていた。
「全員、退避! 深淵から距離を取れ!」
ダスティン副校長の声が飛ぶ。
教師たちが負傷者を抱えて走り、帝国軍が後退し、龍たちが翼を広げて空へ逃れていく。
その中で、リンドウだけが動かなかった。
傷ついた身体を起こし、ハイネを見ている。
『始まったか』
「何を、知っているんですか」
フラワーが問う。
『深淵は、魔法ではない』
リンドウの紫の瞳が、黒へ向けられる。
『世界の外へ通じる穴だ』
フラワーは息を呑んだ。
『ハイネは、その力を使っていたのではない』
低い声が続く。
『穴を閉じる蓋だった』
「止める方法は」
『我らが知る限り、一つだ』
息が止まった。
『穴が完全に開く前に、器を壊す』
「嘘です」
『研究所で、同じものを埋め込まれた龍を見た。最後には、自分も周囲も喰らった』
「ハイネさんは、違います」
『何が違う』
答えられなかった。
誰かを失うたび自分を責め、すべてを一人で背負い、帰る場所を持たないと言い続けてきた人。
その心が深淵の蓋であり続けるには——考えたくなかった。
黒い柱が、空へ立ち上がった。
夜を貫くような、光の届かない柱。
その上空に、投影魔法陣が開いた。
『深淵の大魔道士に、異常を確認』
ヴァルディスの声には、先ほどまでの余裕がなかった。
それでも冷静だった。
『帝国は、あなたの力によって幾度も救われました。同時に、その力へ依存した』
ハイネは投影を見上げる。
『人は深淵を模倣し、研究し——やがて、命そのものまで兵器として作り替えた』
「……黙ってください」
『あなたが力を示し続ける限り、人は次の深淵を欲しがる』
「黙ってください」
『制御できる間だけ英雄と呼び、制御を失えば、人間だと庇う。都合のよい話です』
ヴァルディスの声が静かに落ちる。
『深淵の大魔道士。あなたと生成魔道具と、何が違うのです』
ハイネは答えなかった。
また、間に合わなかった。
また、自分のそばにいた誰かが消えた。
クロエ。
地下へ向かったメルスティン。
焼けた腕で立つラビー。
それでも、自分へ手を伸ばそうとするフラワー。
答えの代わりに、黒が広がった。
『あなた自身が、最もよく分かっているのでしょう』
黒い柱が膨れ上がり、投影魔法陣ごと呑み込んだ。
声が消えても、黒は止まらなかった。
「ハイネさん!」
フラワーは叫んだ。
ハイネが振り返った。
その瞳は、黒く染まっていた。
白目も、虹彩もない。
ただの深淵。
見つめた瞬間、フラワーの身体が凍りついた。
「来ないでください」
「ハイネさん」
「誰かが、私を庇って傷つく」
声が遠かった。
「最後には、私だけが残る。だから——」
言葉は続かなかった。
続かない言葉の代わりに、黒だけが広がっていく。
⸻
30.ハイネさんが、どこへ沈んでも
「行かないでください!」
フラワーは叫んだ。
声は黒の手前で掻き消えた。
音ごと呑まれている。
届かない。
この距離では、どんな言葉も届かない。
なら、届く場所まで行くしかない。
フラワーは幼い龍をセツナへ託した。
「少しだけ、お願いします」
セツナは答えず、その小さな身体を翼の内側へ庇った。
「行きなさい、フラワー!」
ラビーが前へ出た。
焼けた両腕に、炎を纏い直す。
「二度も、わたくしたちの道を塞がせませんわ!」
赤い炎が黒を押し返す。
ほんの数歩分。
それで十分だった。
フラワーは走った。
足元へ花の魔力を流す。
白い花が一輪咲き、黒に触れて消え、小さな光を残す。
その光を踏んで、次の一歩。
また一輪。
また一歩。
黒が頬をかすめた。
熱くも冷たくもないまま感覚が消え、血が流れる。
それでも止まらなかった。
抱えていた手帳が、風に開いた。
めくれるページの中に、一文だけ、色の違う文字が見えた。
『帰るとは、元の場所へ戻ることではない』
『誰かに、もう一度見つけてもらうことだ』
「見つけます」
フラワーは黒の中心を見た。
「ハイネさんが、どこへ沈んでも」

胸元で、完成したばかりの門が強く灯った。
あと一歩。
フラワーの指が、ハイネの胸元へ触れた。
世界が、消えた。
◇
何もなかった。
上も、下も。
音も、光も。
自分の身体の輪郭さえ、確かめようがない。
フラワーは、目を開けているのかどうかも分からなかった。
胸元にあるはずのペンダントの光も、ここには届いていない。
これが、深淵。
ハイネさんが、ずっと一人で閉じてきた場所。
声を出した。
響かない。
それでも呼び続けた。
ハイネさん。
ハイネさん。
名前だけが、自分の内側に残っていく。
遠くで音がした。
泣き声だった。
子どもの。
フラワーは、そちらへ進もうとした。
足はない。
それでも、進みたいと願う。
黒がゆっくりと動いた。
闇の奥に、景色が浮かぶ。
燃える村だった。
小さな少女が立っている。
黒い髪。
細い腕。
周りには倒れた人々と、少女の足元から広がる黒。
『化け物だ』
『あいつがやった』
『近づくな』
少女は震えながら手を伸ばした。
誰も、その手を取らなかった。
伸ばされたままの小さな手が、ゆっくりと下ろされる。
フラワーは見ていることしかできなかった。
過去には、触れられない。
景色が崩れ、断片が流れた。
歓声。
黒へ沈んでいく兵士。
白衣の者たちが口にする、ハイネという名前。
どれも形になる前に消えていく。
年月だけが、指の間を流れていった。
そして、暗闇の底に。
背中が、あった。
「見つけました」
フラワーは言った。
「来ないでください」
声だけが返ってきた。
「全部——」
背中が言った。
「私がいるから、起きる」
その言葉に応えるように、周囲へ景色が浮かび上がった。
クロエの輪郭が、銀の粒へほどけていく。
メルスティンの胸から、赤いものが流れる。
焼けた腕で炎を支えるラビー。
黒へ手を伸ばす、フラワー自身。
喪ったものと、傷つけたものだけが、ハイネの周りを取り囲んでいる。
⸻
31.私にとっては、ハイネさんです
フラワーは、その景色を一枚ずつ見た。
見ながら、気づいた。
どの景色にも、救われた人がいない。
対抗戦で隣に立って戦ってくれたハイネさん。
魔法を教わった生徒たち。
守られた学園。
庇われた自分。
この人が救ってきたものは確かにあったはずなのに、この記憶の中には一つもなかった。
「ハイネさんの記憶には、救った人がいません」
フラワーは言った。
「殺した数だけを覚えて、救った人の顔は忘れる。それは反省ではありません」
ハイネの背中が、わずかに揺れる。
「自分を罰するために、都合よく罪だけを選んでいるんです」
「……黙ってください」
「ハイネさんの力が、犠牲の遠因になった。それは消えません」
否定はしなかった。
フラワー自身、あの問いに反論できなかったから。
「でも、ハイネさんが守ったものも、本当です。それを数えないのは、ハイネさんだけです」
ハイネが振り返った。
黒い瞳。
泣きそうな顔。
それでも涙は出ない。
深淵が、すべてを呑んでいる。
「大切にされる資格などありません」
「あなたが自分を何と呼んでも」
フラワーは、まっすぐに見返した。
「英雄と呼ばれても、兵器と呼ばれても——私にとっては、ハイネさんです」
ハイネの足元で、白いものが揺れた。
一輪の花だった。
あり得ないはずの場所に。
黒に呑まれず、根を張って。

花の周りへ、淡い景色が浮かぶ。
授業中の教室。
食堂の長い机。
ラビーの赤い髪。
フラワーが咲かせた白い花。
誰かが笑っている、なんでもない日。
「ハイネさんが、残していたんですね」
フラワーは笑った。
花が増えていく。
一輪。
二輪。
黒い世界に、細い道を作っていく。
ペンダントの光が戻った。
石の奥で、銀色の門が遠くに灯る。
「帰りましょう」
「帰る場所はありません」
「あります」
「戻れば、また失います」
「はい」
フラワーは否定しなかった。
「また傷つきます。ハイネさんが、また間違えることもあります。私がハイネさんを嫌いになる日も、あるかもしれません」
「……そこは、否定しないのですか」
「嘘を、つきたくないので」
ハイネの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったようにも見えた。
「それでも、一緒に生きるんです」
フラワーは手を差し出した。
「私は」
ハイネが呟いた。
「戻っても、いいのでしょうか」
「はい」
「何も、償っていません」
「生きて、償ってください」
「また、暴走するかもしれません」
「そのときは、また迎えに来ます」
「……何度でも?」
「何度でも」
ハイネは、差し出された手を長いあいだ見ていた。
自分の手が、わずかに震えている。
そして。
ハイネは、差し出された手を握った。
深淵の中で初めて、誰かの体温が生まれた。
遠くで、銀色の門が開いた。
⸻
32.今度は、一人で使いません
◇
門を抜けた瞬間、フラワーの身体へ重さが戻った。
足が石床へ触れるより先に、衝撃が全身を打つ。
ハイネと繋いだ手だけは離さなかった。
二人はもつれるように地上へ転がり、フラワーは片膝をついたまま顔を上げた。
夜が、白く燃えていた。
深淵の中にいたわずかな間に、学園の上空では巨大な光が膨れ上がっていた。
帝国軍の生成魔道具から放たれた魔力が一つに束ねられ、空そのものを押し潰すように迫っている。
その下に、壁があった。
傷ついた龍たちが翼を重ねている。
白銀の翼。
紫の障壁。
焼け焦げ、鱗を失いながら、それでも退かずに並ぶ巨体。
その隙間を、人間たちの防御魔法が埋めていた。
教師たち。
負傷した生徒たち。
生成魔道具を地面へ捨て、素手で障壁へ魔力を注ぐ帝国兵たち。
敵だった者たちが、同じ光を見上げている。
龍たちの翼の奥には、幼い龍がいた。
セツナの脚元で身体を震わせながら、それでも黒い柱の前から離れようとはしていなかった。
「フラワー!」
ラビーの声が届いた。
焼けた両腕を前へ伸ばし、赤い炎で障壁の亀裂を塞いでいる。
フラワーが戻ったのを見た一瞬だけ、その顔が緩んだ。
「遅いですわよ!」
白い光が、さらに沈んだ。
龍たちの翼が軋む。
教師たちの杖へ亀裂が走り、地面へ膝をつく者が増えていく。
障壁の内側へ、細い光が漏れ始めた。
ハイネが立ち上がった。
ふらつきながらも、空へ右手を上げる。
左手は、フラワーの手を握ったままだった。
「ハイネさん」
「離さないでください」
ハイネは言った。
声は弱かった。
けれど、深淵の中にいたときの遠い声ではない。
今、ここにいる人の声だった。
「今度は、一人で使いません」
フラワーは握る手へ力を込めた。
「はい」
そのとき、リンドウの言葉が戻ってきた。
深淵は、魔法ではない。
世界の外へ通じる穴だ。
穴なら。
どこかへ、出るはずだった。
フラワーは胸元の石を握った。
行き先を選ぶ道具ではない。
帰りたい場所を覚える道具だと、クロエは言った。
「ハイネさん」
「何です」
「その穴に、出口を教えます」
ハイネが、フラワーを見た。
「私は」
黒く染まった空を見上げたまま、答える。
「閉じることしか、してきませんでした」
「知っています」
フラワーは前を向いた。
「だから、開ける方を私がやります」
胸元のペンダントが輝く。
石の奥で白い花が開いた。
抱えていた手帳が開き、頁の間から淡い光が溢れる。
フラワーの脳裏に、先ほど目にした手記の一節がよみがえった。
壊すのではない。
命令から、切り離す。
深淵そのものを消すのではなく、この世界だけを呑み続ける流れから切り離し、別の出口を与える。
完成した銀色の門が震え、その輪郭をハイネの足元へ伸ばしていった。
白い花の光が、手帳から溢れた光と重なる。
ペンダントの門が、その二つを深淵の縁へ導いた。
三つの力が、黒へ触れた。
深淵が大きく揺れる。
フラワーの頬を裂いた黒。
地面も、魔法も、音も呑み込んできた穴。
その奥に、これまで存在しなかったものが浮かび上がった。
別の夜空だった。
黒の向こう側に、雲のない空が開いている。
学園でも、帝都でもない。
誰もいない、遥か高い場所。
白い光が深淵へ触れた。
消えなかった。
黒の奥へ吸い込まれ、そのまま向こう側の空へ運ばれていく。
一筋。
また一筋。
学園を押し潰そうとしていた光が、巨大な黒い門を通り抜ける。

最後の光が消えた瞬間、遠い夜空が白く弾けた。
遅れて、轟音が届く。
風が学園を薙いだ。
フラワーは目を閉じ、ハイネの手を握り続けた。
石の破片が地面を転がり、折れた旗が大きく揺れる。
龍も、人間も、学園も、何一つ消えてはいなかった。
ハイネの膝が、石床へ落ちた。
「ハイネさん!」
フラワーが肩を支える。
「問題ありません」
「立てていません!」
「魔力を使いすぎただけです」
「それを問題があると言うんです!」
声を荒らげたフラワーを見て、ハイネは小さく息を吐いた。
笑ったようにも見えた。
そのとき、フラワーの掌の中で硬い音がした。
ペンダント。
透明な石の中で、門の一角から細い亀裂が走っていた。
銀色の線が、一辺ずつ光を失っていく。
最初の一辺。
次の一辺。
繋がったばかりの角が、銀色の粉へ変わって散る。
最後の線が消えた。
フラワーは石を握ったまま、動けなかった。
門は、もうどこにもなかった。
白い花だけが、残っていた。
⸻
33.一人ではありません
◇
白い光が消えたあと、誰もすぐには動かなかった。
巨大な攻撃を受け止めていた障壁が、淡い粒となって崩れていく。
龍たちは重ねていた翼をゆっくりと下ろし、人間たちも杖を支えに息を整えていた。
歓声は上がらなかった。
勝った者はいない。
龍族を退けたわけでも、帝国を倒したわけでもない。
ただ、これ以上失われるはずだった命が残った。
それだけだった。
リンドウが傷ついた身体を起こした。
腹部から流れた紫色の血が、石床を濡らしている。
セツナが隣へ並び、白銀の翼でその身体を支えた。
『深淵の形が、変わった』
リンドウの声が人々の頭へ響く。
ハイネはフラワーの肩を借りながら立ち上がった。
「私一人の力ではありません」
『ならば、何だ』
ハイネは、繋がれたままの手を見た。
「帰る道です」
リンドウはしばらく黙っていた。
『人間の言葉は、信用しない』
「構いません」
『お前たちを、許したわけでもない』
「当然です」
『だが、この場での戦いは終わりにする』
龍軍の間に低いざわめきが走る。
セツナは何も言わず、リンドウの横へ並んだ。
『同胞を連れ、北へ戻る』
「生成魔道具は、どうします」
ダスティン副校長が尋ねた。
『我らの身体から作られたものは、すべて破壊する』
「それでは、また戦争になる」
『ならば、人間が先に止めよ』
リンドウの紫の瞳が、人々を見下ろした。
『我らの身体を使う者を』
『我らの命を、平等という言葉へ変える者を』
『次に会うとき、それが残っていれば』
傷ついた翼を広げる。
『今度は、止まらぬ』
ハイネは答えた。
「私が止めます」
『一人でか』
以前なら、そうだと答えていただろう。
自分がすべて背負うと。
ハイネはフラワーを見る。
ラビーを見る。
傷つきながら並ぶ教師たちと、武器を捨てた帝国兵たちを見る。
「いいえ」
答えは短かった。
「一人ではありません」
リンドウは一度だけ目を細めた。
それ以上は何も言わず、空へ飛び上がる。
龍たちも続いた。
傷ついた者を支え、幼い龍を中央へ囲み、ゆっくりと北へ向かっていく。
セツナだけが、地上へ残った。
白銀の瞳で、自分の脚元にいる幼い龍を見る。
『その子は』
フラワーは幼い龍の前にしゃがみ込んだ。
「一緒に行きますか?」
幼い龍は、空に浮かぶ同胞たちを見上げた。
次に、フラワーを見る。
迷うように、小さく鳴いた。
セツナが近づき、鼻先を幼い龍の額へ触れさせる。
『選びなさい』
『どちらへ行くか』
『お前の命は、お前のものだ』
幼い龍は一歩、セツナへ近づいた。
そして振り返る。
フラワーの服の裾を、鼻先でそっと押した。
「行ってきます、ですか?」
龍は小さく鳴いた。
「また会えますか」
答えはない。
幼い龍は翼を広げた。
切られた片翼では、まだ飛べない。
セツナが身体を低くし、その背中へ乗るよう促した。
幼い龍は一度だけフラワーを見て、セツナの背へよじ登った。
「元気で」
フラワーは笑おうとした。
涙が落ちた。
「今度は、自分のために生きてください」
セツナが空へ上がる。
幼い龍は何度も振り返り、小さな声を上げた。
やがて、その姿も龍軍とともに夜空の向こうへ消えていった。
フラワーは見えなくなるまで、手を振り続けた。
⸻
34.初めての「頼みます」
◇
「地下へ行きます」
ハイネが言った。
立ち上がろうとして、膝が崩れる。
フラワーが支えた。
「無理です」
「メルスティンがいます」
「ハイネさんは歩けません」
「それでも行きます」
「なら、私も行きます」
離れた場所から、ラビーの声がした。
「わたくしもですわ」
焼けた腕を押さえながら、足を引きずって歩いてくる。
「立てるのですか」
「その言葉、そっくりお返しします」
三人は、崩れた校舎へ向かった。
演習場の端を通り過ぎたとき、ハイネの足が止まった。
石床に、何かが落ちている。
割れた眼鏡のレンズだった。
亀裂の走った小さな破片に、遠くの火が映っている。
銀色にも、藍色にも見える光。
ハイネは屈み、レンズを拾った。
何も言わなかった。
掌へ包み込み、懐中へしまう。
三人が校舎へ入ると、廊下の奥に小さな白い花が咲いていた。
一輪。
少し先に、もう一輪。
地下へ向かう道を示すように続いている。
「案内してくれているんですね」
フラワーが呟いた。
ハイネは答えなかった。
ただ、花を踏まないように歩いた。
階段へ近づくにつれ、床に血の跡が現れた。
最初は小さな点だった。
進むほどに濃くなり、手すりや壁にも赤が残っている。
「メルスティンさん……」
フラワーの声が震えた。
ハイネは歩く速度を上げようとした。
身体がついてこない。
壁へ手をつく。
「ハイネさん」
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
「それでも、進みます」
フラワーとラビーは、もう止めなかった。
三人で進む。
地下へ近づくほど、音が聞こえてきた。
カチ。
カチ。
カチ。
暗闇の奥で、確かに時を刻んでいる。
ハイネが顔を上げた。
「メルスティン」
階段の下に、小さな人影が見えた。
壁へ手をつき、血の跡を残しながら、こちらへ歩いてくる。
片手に、銀色の懐中時計を握って。
「遅いですよ」
ハイネが言った。
声が震えていた。
人影が顔を上げる。
血に濡れたメルスティンが、弱く笑った。
「迎えが来るまで」
一歩。
「もう少し」
また一歩。
「かかると思ってたよ」
足が止まる。
身体が前へ倒れた。
ハイネが走った。
今度は、間に合った。
メルスティンの身体を両腕で受け止める。

「メルスティン」
「おかえり」
かすかな声だった。
ハイネの顔が歪む。
「ただいまを言うのは、あなたです」
「そうだったね」
メルスティンは、握っていた時計を持ち上げた。
「クロエから」
ハイネの開いた手へ置く。
「帰る時間を、託された」
文字盤には、四つの紋様が刻まれていた。
花。
光。
時間。
次元。
止まることなく、針が動いている。
「自分で渡せと、言ったはずです」
「言ったよ」
「なら」
「努力はした」
メルスティンは笑った。
「ここまで、来ただろう」
ハイネは時計を握り締める。
クロエは、と問いかけようとして、声が止まる。
分かっていた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「クロエは」
メルスティンは、地下の奥へ視線を向けた。
そこには誰もいない。
小さな銀色の光だけが、暗闇を漂っていた。
「空を」
メルスティンが言った。
「見せに行ったよ」
「誰に」
「生まれられなかった、子どもたちに」
ハイネは目を閉じた。
握った時計から、微かな魔力が伝わってくる。
声はない。
温度もない。
それでも、彼女がいた時間が残っている。
「そうですか」
それしか言えなかった。
メルスティンの呼吸が、さらに浅くなる。
「ハイネ」
「何です」
「帰ってきてくれて」
言葉の途中で息を吸う。
「良かった」
「あなたも帰ります」
「うん」
「私が連れて帰ります」
「うん」
「医療班へ行けば」
「うん」
「だから」
ハイネの声が崩れた。
「だから、目を閉じないで」
メルスティンは、ゆっくりと笑った。
「命令?」
「そうです」
「君の命令なら」
瞼が落ちる。
「聞いてもいいかな」
「メルスティン」
返事はない。
「メルスティン」
呼吸は、まだかすかに残っている。
ハイネは彼を抱き上げた。
立ち上がろうとして、足元が揺れる。
フラワーとラビーが、両側から支えた。
「触らないでください」
反射的に出かかった言葉を、ハイネは途中で止めた。
二人を見る。
フラワーは泣いている。
ラビーも顔をそらしながら、黙って肩を差し出している。
ハイネは、しばらく何も言えなかった。
それから。
「……頼みます」
初めて口にした、助けを求める言葉だった。
フラワーは強く頷く。
「はい」
ラビーは鼻を鳴らした。
「最初から、そうおっしゃればよろしいのですわ」
三人で、メルスティンを支える。
一段。
また一段。
地下の闇から、地上の光へ。
ハイネの手の中で。
銀色の時計が、帰る時間を刻み続けていた。
⸻
第六幕 帰る時間を託された者たち
35.壊すのではなく、切り離す
地上へ戻ったとき、夜はまだ終わっていなかった。
校舎の窓は割れ、演習場の半分は深淵によって抉られている。
防御結界を支えていた塔は根元から折れ、その向こうでは今も赤い炎が燃えていた。
けれど、空に龍の姿はない。
帝国軍の生成魔道具も沈黙している。
聞こえるのは、負傷者を運ぶ声と、崩れた石を退かす音。
そして、生き残った者たちの途切れそうな呼吸だけだった。
「治癒班!」
フラワーが叫んだ。
「誰か、来てください!」
声に気づいた教師たちが駆け寄ってくる。
ハイネの腕に抱かれたメルスティンを見た瞬間、彼らの表情が変わった。
「すぐに寝台を!」
「胸部に複数の貫通痕!」
「魔力経路が崩れています!」
白い布が地面へ広げられる。
ハイネは膝をつき、メルスティンをその上へ寝かせた。
治癒魔法士たちが傷口へ手をかざす。
淡い緑の光が灯り、胸元へ流れ込もうとした。
だが、光は皮膚へ触れる直前に弾かれた。
メルスティンの身体の内側から、金色の糸が浮かび上がる。
細く、鋭く、心臓へ巻きつくように明滅していた。
「外部術式が残っています」
治癒魔法士が顔を青ざめさせる。
「身体の内側で、治癒を拒絶している」
「解除してください」
ハイネが言った。
「できません」
「では、術式だけを壊してください」
「壊せば、心臓まで損傷します!」
「術式だけを沈めます」
ハイネの指先へ、黒い魔力が集まり始めた。
「ハイネさん!」
フラワーが、その腕をつかんだ。
「離してください」
「今のハイネさんに、そんな細かな制御はできません」
「できます」
「できていませんでした!」
ハイネはフラワーを見た。
言い返そうとして、口を閉じる。
つい先ほど、自分は演習場ごと呑み込もうとした。
フラワーの身体を消しかけ、ラビーを傷つけ、自分自身を深淵の奥へ沈めようとした。
できると言い切る資格など、今の自分にはない。
「では」
ハイネの声が低くなった。
「どうすればいいのです」
それは、生徒へ答えを求める教師の声ではなかった。
縋る場所を失った、一人の人間の声だった。
フラワーはメルスティンを見た。
顔色は白く、唇にもほとんど血の色がない。
それでも胸は、まだかすかに上下している。
生きている。
まだ。
「手帳を使います」
フラワーは、クロエから託された茶色の手帳を取り出した。
土埃と血に汚れ、何枚かのページは破れている。
それでも、文字は残っていた。
サクラの花魔法。
クロノスの次元術式。
生成魔道具の構造。
龍式研究の記録。
そして、クロエとして書き加えられた細い銀色の文字。
「解除術式が、どこかにあるはずです」
フラワーはページをめくった。
一枚。
また一枚。
けれど焦るほど、文字は頭へ入ってこない。
頁の上を視線だけが滑っていく。
「脈が、さらに弱くなっています!」
「待ってください!」
フラワーはまたページをめくる。
その指へ、ラビーの手が重なった。
「落ち着きなさい」
「でも!」
「あなたの魔法は、急ぐほど道を見失いますわ」
ラビーの両腕には焼けた痕が残り、制服も裂けている。
立っているだけで苦しいはずなのに、声はいつものように強かった。
「花は、引っ張っても早く咲きませんのよ」
フラワーは息を呑んだ。
クロエが、踏み荒らされた土から顔を出した白い花を見ながら語った言葉を思い出す。
花には、時間が必要だ。
目に見えない場所で根を伸ばし、水を探し、光を受けて、それから咲く。
フラワーは目を閉じた。
手帳を読むのではない。
手帳が覚えている場所へ、触れる。
両手から花の魔力を流し込むと、白い光が革表紙へ染み込んだ。
文字が淡く輝き、ページがひとりでにめくれ始める。
一枚。
また一枚。
やがて、一か所で止まった。
頁の端に、クロエの文字が残されている。
『生成された術式は、必ず命令の原点へ戻ろうとする』
『解除とは、壊すことではない』
『与えられた命令から、切り離すことである』
「切り離す……」
フラワーはメルスティンの胸元へ手を置き、目を閉じた。
金色の術式が見える。
細い糸のように心臓へ絡みつき、その先は学園の外へ伸びていた。
遠く、帝国中央司令部の方角へ。
「まだ、命令を受け続けています」
「誰からです」
「ヴァルディスです」
フラワーは答えた。
「これは地下の術式とは別です。メルスティンさんの身体そのものを中継点にしている」
「この糸を通して、メルスティンさんの魔力経路を壊し続けている」
ハイネの指が、静かに握られる。
足元で黒が揺れた。
「ハイネさん」
フラワーはハイネを見る。
「術式を消すのではなく、外へつながっている糸だけを沈められますか」
「どこまでが外部の命令なのか分かれば」
「私が見つけます」
「失敗すれば」
「失敗しません」
「根拠は」
「ありません」
フラワーは答えた。
「でも、今はやるしかありません」
以前のハイネなら、根拠のない行動を止めただろう。
危険だと。
未熟だと。
自分が代わると。
けれど、一人では使わないと約束した。
自分だけで決めないと、決めた。
「分かりました」
ハイネはメルスティンの横へ膝をついた。
「指示を」
フラワーは目を見開いた。
ハイネさんが、判断を自分へ委ねている。
その重さに、指が震えた。
「フラワー」
ハイネが呼ぶ。
「今は、あなたが見えているものを信じます」
フラワーは強く頷いた。
「はい」
花の魔力を広げる。
メルスティンの胸元に、白い花が咲いた。
花弁の一枚一枚が金色の糸へ触れ、どこまでがメルスティン自身の魔力なのか、どこからが外部の命令なのかを探っていく。
一つ目の糸。
違う。
これは、心臓を動かす魔力。
二つ目。
違う。
メルスティン自身の防御術式。
三つ目。
これも違う。
体内へ侵入した術式を押し返そうとしている、残された抵抗。
さらに奥。
冷たい糸。
感情も、記憶も、誰かを守りたいという意志もない。
ただ。
壊せ。
止めろ。
生かすな。
その命令だけを運んでいる。
「見つけました」
フラワーが息を呑む。
「この糸です」
ハイネが右手を上げた。
指先に、小さな深淵が生まれる。
これまでのような巨大な穴ではない。
針の先ほどの黒。
「もう少し右です」
フラワーが導く。
「そこではありません。下へ。あと少し」
黒が、金色の糸へ近づく。
少しでもずれれば、メルスティンの命を支える魔力まで消える。
ハイネの指が震えた。
「ハイネさん」
フラワーが言う。
「私を見てください」
ハイネが、フラワーを見る。
「一人ではありません」
フラワーは言った。
「私が見ています」
震えが止まった。
黒が、金色の糸へ触れる。
「今です!」
ハイネが指を閉じた。
糸だけが消えた。
金色の術式が一瞬強く光り、次いでメルスティンの身体から薄い皮のように剥がれ始める。
「弾かれません!」
治癒魔法士が叫んだ。
緑の光が傷口へ流れ込む。
裂けた血管がつながり、傷ついた臓器が少しずつ修復されていく。
メルスティンの胸が、大きく上下した。
咳き込み、血を吐く。
けれど。
呼吸が戻った。
「脈が上がっています!」
「医療区画へ!」
「まだ危険な状態です!」
治癒魔法士たちが寝台を持ち上げる。
ハイネは、その横を離れなかった。
「ハイネさん」
フラワーが呼ぶ。
ハイネは、メルスティンを見たまま答えた。
「何です」
「戻ってきます」
その言葉に、ハイネの肩がわずかに下がった。
「……そうですね」
誰かが生きることを信じること。
ハイネにとって、それはどんな大魔法よりも難しいことだった。
⸻
36.命を奪って作った平等
◇
帝国中央司令部では、警報音が鳴り続けていた。
「北方固定術式、全基停止!」
「生成魔道具の接続率、二十パーセント以下!」
「第二都市守備隊、武装解除を宣言!」
「各地で命令拒否が発生しています!」
円卓の中央に浮かぶ帝国全土の地図から、青い点が一つずつ消えていく。
破壊されたのではない。
兵士たちが自ら腕輪を外し、杖を捨て、生成魔道具との接続を切っているのだ。
ヴァルディスは、その光景を黙って見つめていた。
「愚かな」
やがて、低く呟く。
「力を与えられながら、それを捨てるとは」
「ヴァルディス伯爵」
背後から、ポルクスの声がした。
「説明してもらおう。龍式研究についてだ」
司令部の将校たちが口を閉ざす。
ポルクスが円卓へ手を置くと、学園の記録水晶から送られてきた映像が浮かび上がった。
リンドウの胸に埋め込まれた金属環。
セツナの身体に刻まれた傷。
旧魔力炉の内部。
生まれる前から心臓を抜かれることを定められた、龍の胎児たち。
そして、クロエの告白。
「北方鉱脈から採掘した魔力結晶だと、あなたは報告した」
「一般に理解しやすい表現を用いただけです」
「龍の心臓を、鉱物と呼ぶのか」
「魔力的な性質は近似しています」
「質問に答えろ」
ポルクスの声が低くなる。
「龍族を捕らえ、その身体を解体し、生成魔道具へ使用したのか」
「はい」
ヴァルディスは、何のためらいもなく認めた。
将校たちが息を呑む。
「なぜ隠した」
「公表すれば、研究が遅れるからです」
「倫理審査は」
「行えば、否決されたでしょう」
「だから無視したと?」
「結果が必要でした」
ヴァルディスは、ようやく振り返った。
「あなたも見たはずです。魔力を持たなかった兵士が龍を倒した。身分も血筋も関係なく、誰もが同じ力を使えた。私の研究は、帝国から才能による差別を消した」
「命を奪って作った平等を、平等とは呼ばない」
ポルクスが答える。
「では、何と呼びます」
「搾取だ」
重い言葉が、司令部へ落ちた。
ヴァルディスは、ほんの少しだけ笑った。
「綺麗事ですね。あなたは生成魔道具の最大出力を許可した。その命令で龍を焼き、兵士たちへ使えと命じた。今さら、自分だけ正しい側へ戻れると思っているのですか」
「思っていない」
答えに迷いはなかった。
「私にも責任がある」
ヴァルディスの笑みが消えた。
「責任を認めれば、何が変わる。過去は変わらない。死んだ龍も、実験に使われた命も戻らない」
「だから、続けるのか」
「はい」
ヴァルディスは答えた。
「ここまで費やした犠牲を無駄にしないために、研究を完成させる。より安全に、より効率的に、より少ない犠牲で、より多くの人間を救う。それが、死者へ果たせる責任です」
「違う」
司令部の隅から声がした。
若い通信士だった。
第一幕で生成炉の異常を報告し、起動を優先しろと命じられた男。
身体を震わせながら、それでも立っていた。
「死んだ命を理由にして、次の誰かを殺しているだけです」
ヴァルディスが視線を向ける。
「君は研究を理解していない」
「分かりません」
通信士は答えた。
「でも、分からない人間へ隠さなければ続けられない研究が、正しいとは思えません」
別の将校が立ち上がる。
「生成魔道具部隊の指揮権を返上します」
「私もだ」
「全設備を封印すべきです」
「北方から、即時撤退を」
声が、一つずつ増えていく。
ヴァルディスは周囲を見渡した。
「感情で決めるのですか。龍が泣いたから。幼い姿をしていたから。目の前で死んだから。それだけで、帝国の未来を捨てる?」
「感情を排除した結果が、今夜の戦争だ」
ポルクスが言った。
⸻
37.あなたは、よい穴だった
ヴァルディスは答えなかった。
代わりに、円卓の端末へ手を置く。
「警告!」
通信士が叫ぶ。
「司令部地下で、未登録術式が起動!」
「次元座標が固定できません!」
「ヴァルディス!」
ポルクスが剣を抜く。
「何をするつもりだ」
「研究を続けます」
「逃げるつもりか」
「逃げる?」
ヴァルディスは、初めて不快そうに眉を寄せた。
「クロノス先生が研究所を去ったとき、誰もがそう呼びました。責任から逃げた。自分が作ったものを捨てたと」
黒い術式の周囲へ、銀色の線が浮かび上がる。
時の文字盤。
方形の門。
クロノスの術式を模したもの。
けれど、どちらも歪んでいる。
「クロノス先生は研究を残した。ならば、完成させる者が必要です」
空間が裂け始めた。
裂け目の向こうに、紫色の空が見える。
上下も、遠近もない。
幾つもの扉が浮かび、開いては閉じている。
その奥で、人の形にも龍の形にも見える巨大な影が動いた。
「何だ、あれは」
誰かが呟く。
ヴァルディスの口元へ、穏やかな笑みが戻った。
「クロノス先生が、最も恐れた場所です。時間の外。世界と世界の隙間。次元そのものが、意思を持つ場所」
裂け目の奥から、声がした。
女の声だった。
遠く。
近く。
いくつもの声が重なっている。
『クロノスは、どこ』
司令部の魔法灯が、一斉に消えた。
ヴァルディスは裂け目を見上げる。
「あなたが奪った肉体なら、そこにあるでしょう」
しばし、沈黙。
それから。
『身体は、ここにある』
闇の奥で、何かが動いた。
一瞬だけ。
細い、男性の輪郭が見えた。
銀色の長い髪。
閉じた瞳。
その身体を、白い指が人形のように抱いている。
メルスティンの兄。
かつてクロノスと呼ばれた男の肉体。
だが、その内側に彼自身はいない。
『これは、もう私のもの』
声が重なる。
ヴァルディスの瞳がわずかに見開かれた。
「ならば、何を探している」
空間がさらに歪む。
ヴァルディスの身体が裂け目へ引かれ始めた。
「待て!」
ポルクスが踏み込む。
剣がヴァルディスの肩を切り裂き、白銀の軍服へ赤が走る。
それでも、ヴァルディスは笑っていた。
「ならば、私が案内しましょう」
『あなたではない』
笑みが止まった。
「何?」
『あなたは、クロノスではない』
「当然だ」
『時間もない』
白い指が、ヴァルディスの背後から伸びる。
「待て」
『深淵もない』
何かが肩をつかんだ。
人の手に似ている。
けれど指が多く、関節も多い。
「門を開いたのは、私だ!」
『門は、鍵ではない』
白い指が、彼を裂け目へ引きずり込む。
『鍵を見つけるための、穴』
「私はクロノスの研究を完成させた!」
『だから』
女の笑い声が重なった。
『あなたは、よい穴だった』
空間が閉じた。
ヴァルディスの姿が消える。
床へ落ちた黒い端末の表面に、銀色の文字が一度だけ浮かんだ。
『接続先、確定』
文字は、すぐに消えた。
⸻
38.次元の外側には、魔女がいる
◇
学園へ帝国中央司令部から緊急通信が届いたのは、メルスティンが医療区画へ運ばれた直後だった。
「ヴァルディス・エルグレイン伯爵、次元転移術式によって消失!」
「最高司令部は、生成魔道具の全使用停止を発令!」
「北方防衛線から、全兵力を撤退させます!」
ダスティン副校長が疲れ切った顔を上げた。
「逃げられたか」
「逃げたとは、限りません」
ハイネは銀色の懐中時計を握っていた。
クロエが最後の時間を刻み、メルスティンが託された時計。
文字盤の針が、通常とは違う動きをしている。
進んでは戻り、戻っては一瞬止まる。
「ハイネさん」
フラワーが隣へ立った。
「時計が、何かを示しています」
ハイネが蓋を開く。
文字盤には、四つの紋様が刻まれていた。
花。
光。
時間。
次元。
そのうち、時間の紋様だけが淡く点滅し、方形の門の中央へ細い亀裂が走っている。
「ヴァルディスが、クロエさんの術式を使ったからでしょうか」
「いいえ」
ハイネは時計を見つめた。
「同じ術式ではありません」
「何が違うんですの?」
ラビーが近づいてくる。
「クロエの門は、帰る場所へつなぐものでした」
時計の亀裂が、また一つ広がる。
「ヴァルディスの門は、帰れない場所へつながっている」
フラワーは手帳を開いた。
頁がひとりでにめくれていく。
一枚。
また一枚。
やがて、最後に近い場所で止まった。
そこには、サクラの文字でも、クロエの文字でもない、乱れた筆跡が残されていた。
『次元の外側には、魔女がいる』
『魔女は世界を渡るのではない』
『世界を、自分の内側へ取り込む』
『私の身体を奪ったものも、同じ存在だ』
フラワーの指が止まる。
「これ……クロノスさんの文字ですか?」
ハイネは黙って、その続きを読む。
『肉体を奪われても、思念は逃がせる』
『だが、世界から完全に離れることはできない』
『もし、あれが再び私を見つければ——』
文章は、そこで途切れている。
フラワーが次の頁をめくる。
何も書かれていない。
けれど、白い紙の中央へ黒い染みがゆっくりと広がり、銀色の文字が浮かび上がった。
『クロノスは、どこ』
フラワーの指が止まる。
ラビーが息を呑んだ。
ハイネの足元で、深淵がわずかに揺れた。
今までとは違う。
何かに呼ばれたような揺れだった。
「次元の魔女」
ハイネが呟く。
「知っているんですか」
「名前だけです」
「どんな人なのです?」
「人かどうかも、分かりません」
ハイネは再び手帳へ目を落とす。
「ですが、一つだけ分かりました」
「何ですか」
「魔女が探しているのは、クロノスそのものではありません」
フラワーが眉を寄せる。
「では、何を?」
ハイネは銀の時計を持ち上げた。
「クロノスから離れ、クロエとして生まれた時間です」
「クロエさんの……」
「肉体は、すでに次元の魔女に奪われている」
ハイネは静かに続ける。
「けれど、クロノスの精神と思念は肉体から離れ、クロエとして生きた」
時計の時間の紋様が明滅する。
「そしてクロエは消える直前、自分が生きた時間をこの時計へ残した」
ラビーが時計を見る。
「つまり魔女は、身体は持っているけれど……」
「クロノスだったものが、自分の手を離れ、別の人生を生きた時間を持っていない」
ハイネが答えた。
「だから、これを?」
「おそらく」
ハイネの指が時計を閉じる。
「クロエが消えたことで、その時間が身体からも魂からも切り離され、形を持った。魔女にとっては、見つけやすくなったのでしょう」
「なら、止めなければ」
フラワーが顔を上げる。
「はい」
ハイネは答えた。
けれど、その目はフラワーではなく、医療区画の方角へ向いている。
「今すぐ行くつもりですか」
「本来なら、すぐに追うべきでしょう」
「でも」
「今は、待ちます」
フラワーは少し驚いた。
以前のハイネなら、誰にも告げずに追ったはずだった。
自分が行けばいいと。
一人で終わらせればいいと。
「メルスティンが目を覚ますまで、この時計を託した人間の話を聞かなければなりません」
「一緒に待ちます」
「わたくしもですわ」
ラビーが腕を組む。
「あなたたちまで残る必要はありません」
「また始まりましたわね」
「何がです」
「一人で待とうとする癖です」
「待つだけですよ」
「待つときほど、一人ではいけないのです」
ラビーは言い切った。
ハイネは何かを返そうとして、やめた。
「……好きにしてください」
「最初から、そのつもりですわ」
⸻
39.行く場所を、間違えないために
◇
夜明けが近づくにつれ、空は少しずつ色を取り戻していった。
黒。
濃い藍。
薄い紫。
そして、東の空へ細い光が差し始める。
学園は壊れていた。
多くの命が失われた。
クロエは消えた。
メルスティンは、まだ眠っている。
ヴァルディスは次元の向こうへ消えた。
何一つ、勝利とは呼べなかった。
それでも、生き残った者たちは瓦礫を退かしている。
負傷者を運び、壊れた結界を支え、失った者の名前を一つずつ記録していた。
フラワーは演習場の端へ座っている。
膝の上には、クロエの手帳。
掌には、門を失ったペンダント。
透明な石の中へ、白い花だけが残っていた。
「門は、消えてしまいました」
隣に立ったハイネへ、フラワーが言う。
「ええ」
「もう、使えないのでしょうか」
「分かりません」
「クロエさんは、帰る道を残してくれたのに」
「道は、一度使えば終わるものではありません」
ハイネは東の空を見る。
「消えたのは、形だけです」
「形だけ?」
「あなたは、私を見つけた。帰る場所がないと言った私へ、あると言った」
ハイネは、フラワーの掌にある石を見る。
「その記憶は、門より長く残ります」
フラワーは石を握った。
「また、作れますか」
「あなたなら」
「はい」
ハイネは答えた。
「いつか」
フラワーは手帳を開く。
白い頁。
クロエが残した文字。
クロノスが残した文字。
理解できない術式。
まだ読めない言葉。
それらすべてを、今度は怖いとは思わなかった。
「読みます」
「何をです」
「全部です。サクラさんの研究も、クロノスさんの研究も、クロエさんが書き足したものも、次元の魔女のことも、ハイネさんの深淵のことも」
手帳を胸へ抱く。
「次は、誰か一人が消えなくてもいい道を見つけます」
ハイネは何も言わなかった。
けれど、その沈黙は以前のように、拒むためのものではなかった。
「期待しています」
やがて、短くそう言った。
フラワーは笑った。
「ハイネさんに期待されると、ちょっと怖いです」
「そうですか」
「でも、嬉しいです」
「そうですか」
ハイネは視線を逸らした。
ほんの少しだけ、照れているようにも見えた。
そのとき、演習場の入口から一人の軍人が駆け込んできた。
「ラビー・クリステイル様!」
ラビーが振り返る。
軍人の顔には、戦況を報告する者とは違う、言葉を伝えること自体を恐れている表情があった。
「何ですの」
「クリステイル伯爵家より、至急の報告が」
ラビーの顔から、笑みが消える。
「お父様は」
軍人は答えなかった。
その沈黙で、ラビーはすべてを理解した。
「嘘ですわ」
誰も、何も言っていないのに、ラビーは首を横に振った。
「お父様は、北方防衛軍の指揮を」
「伯爵は、生成魔道具の運用失敗について全責任を負うとの書面を残し」
軍人の言葉が、一度止まる。
「本日未明、自ら命を絶たれました」
風が演習場を抜けた。
ラビーは動かなかった。
泣かなかった。
怒鳴らなかった。
ただ、片耳の金朱色のイヤーカフへ、ゆっくりと手を触れた。
「責任を、押しつけられたのですね」
「現在、詳細を確認しています」
「誰に」
軍人は答えない。
「誰が、お父様一人へ責任を押しつけたのです」
「帝国議会と、科学協会の一部が、生成魔道具の運用計画はクリステイル伯爵の独断だったと」
ラビーの指先に、火が灯った。
小さく。
赤く。
けれど、今までの火とは違う。
静かではない。
怒りを食べ、悲しみを燃料にしている火。
「ラビーさん」
フラワーが近づく。
「触らないで」
ラビーは言った。
声だけは、不自然なほど落ち着いている。
「今、触れられたら、何かを燃やしてしまいます」
フラワーは足を止めた。
それでも、離れなかった。
「ここにいます」
「……勝手になさい」
「はい」
ラビーは、燃える指を握り込んだ。
炎は消えない。
手のひらの中で、小さく揺れている。
「ヴァルディスだけではありません」
ラビーが言った。
「この戦争を利用して、お父様へ責任を押しつけた者がいる」
そして。
「フレアも」
その名を口にした瞬間、火が強くなった。
「英雄の顔をして、帝国の希望として立っていた。あの人の炎が、お父様を追い詰めるために使われた」
「ラビー」
ハイネが名を呼ぶ。
「復讐するなとは言いません」
ラビーがハイネを見る。
「止めないのですか」
「止めても、消えないでしょう」
「では」
ハイネは、ラビーの握った拳を見た。
「あなた自身まで燃やさないでください」
ラビーは答えなかった。
火だけが、手の中で揺れている。
長い沈黙のあと、ラビーはゆっくりと拳を開いた。
赤い火は消えず、小さく掌の上へ残った。
「わたくしは」
声が震えた。
「何も知らないまま、お父様を弱い人だと思っていました。何も言わないから、逃げているのだと」
火の中へ、涙が一滴落ちた。
消えることなく、赤い光の中へ溶ける。
「でも、本当に逃げていたのは、誰だったのでしょうね」
フラワーは何も言わなかった。
今は言葉を渡すときではない。
ただ、隣に立つときだった。
ラビーも、そこを離れろとは言わなかった。
やがて。
医療区画の方角から、鐘が一度鳴った。
治癒班の合図。
危険な状態を脱した者がいるときの鐘。
ハイネが顔を上げる。
フラワーも。
ラビーも。
同時に、そちらを見た。
治癒魔法士が入口から走ってくる。
「メルスティン校長が」
息を切らしながら告げる。
「意識を、取り戻しました」
ハイネは動かなかった。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
何をすればいいのか分からない顔をした。
その横で、ラビーが涙を拭った。
「何をしているんですの」
声は、まだ掠れていた。
「早く行きなさい」
ハイネがラビーを見る。
「あなたは」
「わたくしは、ここにいます」
ラビーは掌の火を見つめた。
「行く場所を、今は間違えたくありませんから」
ハイネは短く頷いた。
そして、医療区画へ歩き出す。
最初の一歩はゆっくりだった。
けれど、二歩目からは少しだけ速かった。
「ハイネさん!」
フラワーが後を追う。
「走ると転びますわよ!」
ラビーも続いた。
ハイネが振り返る。
「あなたも来るのですか」
「一人で待ってはいけないのでしょう?」
「それは、あなたが言ったのでは」
「今は、わたくしが一人でいたくないのです」
ハイネは何も言わなかった。
ただ、歩く速度を少しだけ落とした。
三人の足音が、壊れた学園の廊下へ響く。
朝の光が、割れた窓から差し込んでいた。
それは、すべてが終わった光ではない。
多くを失ったあとで。
それでも、誰かと次へ進む者たちの光だった。
⸻
40.あの人が、ほしい
◇
同じ頃。
世界と世界の隙間で、ヴァルディスは目を開けた。
足元はない。
空もない。
扉だけが、無数に浮いている。
一つの扉の向こうには、燃える帝都。
一つの扉の向こうには、まだ幼いハイネ。
一つの扉の向こうには、白衣を着たクロノス。
存在しなかったはずの時間が、無数の扉の奥で生きていた。
『クロノスは、どこ』
声が響く。
ヴァルディスは暗闇の奥へ向かって、頭を下げた。
「あなたの腕の中にあるでしょう」
暗闇が揺れた。
白い指の隙間から、一人の男の身体が見えた。
銀色の髪。
閉じられた瞳。
年齢を感じさせない、静かな横顔。
クロノスの肉体。
かつてメルスティンが兄と呼んだ男の身体。
『これは、身体』
女の声が重なる。
『私の器』
「なら、何を探している」
『クロノス』
「その身体がクロノスだ」
『違う』
巨大な瞳が開いた。
『身体の中に、クロノスはいない』
ヴァルディスは黙る。
『逃げた』
声に、わずかな怒りが混じる。
『身体を置いて』
『時間を置いて』
『私から逃げた』
「精神と思念を、外へ逃がした」
『そう』
「そして、それがクロエとして生まれた」
すべての扉が、一度だけ揺れた。
『クロエ』
初めて、魔女がその名を正しく発した。
『あれは、クロノスではなかった』
「同じ魂だ」
『同じではない』
ヴァルディスの眉が動く。
『同じなら、同じものを選ぶ』
扉の一つに、地下研究所が映る。
三分間。
龍の胎児たち。
空。
花。
星。
消えていくクロエ。
『あれは、違うものになった』
女の声には、理解できないものを見つめるような響きがあった。
『だから、ほしい』
「クロエは消えた」
『知っている』
「時間軸からも、肉体からも」
『でも』
すべての扉が、一斉に開いた。
何百もの世界。
何千もの時間。
そのすべてから、女の笑い声が聞こえる。
『時間は残った』
一本の扉が、他より大きく開いた。
朝の光に包まれた魔法士学校。
その廊下を歩く。
ハイネの姿。
胸元には。
銀色の懐中時計。
『花』
紋様が光る。
『光』
二つ目。
『時間』
三つ目。
『次元』
四つ目。
『クロエが生きた時間』
『クロノスだったものが、私から離れて生きた時間』
ヴァルディスの顔から、笑みが消える。
「なるほど」
ハイネの足元。
小さく深淵が揺れる。
『それだけではない』
魔女の声が弾む。
『世界の外へ穴を開けられる』
深淵。
『私がいる場所と、同じ外側へ』
「だからハイネを狙うのか」
『クロエの時間を持つ者』
『世界の外へ、穴を開ける者』
『二つを、一つの身体が持っている』
白い手が、門の向こうへ伸びる。

ヴァルディスは、その指先を見た。
「私を使って、あそこへ行くつもりか」
『あなたは、まだ使える』
ヴァルディスが低く笑う。
「光栄ですね」
『でも』
白い指が彼の肩へ食い込んだ。
『あなたが欲しいわけではない』
ハイネが、医療区画へ続く廊下を歩いている。
フラワー。
ラビー。
三人の足音。
銀色の時計。
深淵。
女の笑い声が、大きくなる。
『あの人が、ほしい』
ハイネの足元で。
深淵が、一度だけ揺れた。
龍族大侵攻編 終
次章
次元の魔女



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