結局どこにいても「居場所」なんてものはないし、「永遠」もない

なんてタイトルだ。悲観的すぎる。

ゴールデンウィーク。
前半は東京へ行き、後半は実家に帰った。

休みがあると、色んなことを考えられてしまう。
別に忙しくても暇でも常に私の頭はフル回転(空回り)して疲労困憊しているのだが、それはさておき。

東京へ行くと毎回何らかのダメージを負って帰ることになる。今回は大手町がダメだった。

高層ビルが立ち並び、ジャケットを着た人たちや身なりの良い人たち、私よりもいい暮らしをしていそうな小型犬が闊歩していて、リュックを背負ってキャリーケースをひいている田舎者には人権がないように思える。
そんなことはないとわかってはいつつも、本当に自分がこの空間に「存在しない」かのように思えてしまう。東京大手町は武装が必要だ。

なんていったって、大手町には休める場所がない。ベンチなんてないし、気軽に入れるカフェはない(あるのかもしれないが、ビルに入るのが怖いので、ないとカウントする)。

かろうじて見つけた和田倉噴水公園で高層ビルが視界から消えてホッとしたのも束の間、夕暮れの噴水をバックにウェディングフォトを撮るカップル。

ああ。なんて残酷なのでしょう。
やっぱり東京には居場所も逃げ場もないのだろうか。

わからないけど、大人の存在意義や居場所はだいたい絞られると思う。特に大きなものが仕事、家庭だろう。
もちろん生まれ育った家族はあるとして、25歳を過ぎると、家庭を今度は自らが作り上げていく番になる。

仕事ができる人はだいたいモテるし、家庭も上手くまわせるんだろうが、そんな器用な人たちばかりではないことも承知している。だけど、文句を言いながらでもどこかには「自分」が存在してもいい理由があって、責任や理想や何らかの「自分だけ」にしかできないという自負・自信を持って生きているんだと思う。

それが職場の人もいるだろうし、趣味の人もいるだろうし、関係性のなかにある人もいるだろう。
私にとっての友人は、それぞれ、「この人」だから好きだし安心できるというように代替不可能な存在である。

ただ、こと自分はどうかと尋ねられると、誰かにとって代替不可能な存在とは思えない。時間が経てばすぐに忘れられる程度で、職場でだって別に私ができることは誰にだってできる。つまりは自分に自信がないということなのだが、端的に言えばナルシストなのだろう。誰かの特別でありたいけれど、自分がそれに値するほどのことを成し得ているわけではない自覚があって、そのうえで誰かから「必要だよ」と言われることを望んでいる。
自分で自分のことを認めたり、自分に対する理想を現実的なハードルにしたり、そもそも自分の価値を必要以上に上げたり下げたりしなくてもいいと理解したりすることができていない。
だから、つまらないことで一喜一憂して、必要以上に精神を消耗する。

目の前でライトを浴びて、19:00になったら出てくる噴水をバックに写真を撮っているカップルは、こんなことを考えなくてもいいんだろうな。こんなことをいちいち考えているから、私は上手く生きていけないんだろうな。自立してるとか、誰かに甘えるとか、ポジティブとかネガティブとか、そういうことじゃなくて、こんなことをぐるぐると考えてる人とは付き合うだけ面倒だもんなぁ。
このカップルは、「満たされている」んだろうな、
今、「幸せ」の絶頂にいるんだろうな。私はこんな幸せをいつの日か感じることはできるのだろうかと考えて、泣いた。

公園の端にある、座ってもいいのか定かではない冷たい丸太のような石に腰掛けながら、私はその様子をぼやける視界で眺めていた。

見たくない気持ちでいっぱいだったが、目が離せなかった。
高層ビルから逃げられたはずの空間で、今度は他人様のこれ以上ない幸せの瞬間を目にして心が苦しくなった。いいな。どんな徳を積んだら、こんなに「幸せ」を経験できるんだろう。私はどんな風に生きたら、こんなことをうじうじと考えなくても良い人間になれるのだろう。

「今生きているこの瞬間」を純粋に楽しめて、目の前の誰かの幸せを素直に祝えて、喜べて。
自分は自分だとうまく境界を引きながら自分の足で自分の道を歩む人にしか、多分東京も人生もうまく生きられないんだろうな。

………

幸か不幸か悩みを外に出したらなんとかなる方の人間で、考えていたことを誰かに言って笑い飛ばしてもらえたら冷静に戻れる自分もいて。

そんなことを考えたこともあったな。
まだ大手町は慣れないしちょっとダメージを負うけれど、意外と東京は優しい街もあるんだという学びを得た。

……

実家に帰って祖母を訪ねると、ちょっと呆けているようだった。90前だしな。仕方ないよな。でも、何だか悲しかった。

私のことを誰かと間違えることはなかったけれど、会えなくて寂しいと何度も言っていた。週一で祖母を訪ねているはずの父は「最近来てくれない」と怒られていた。父は困ったように笑って、「また来るしな」と言った。
寂しさって多分、いくつになっても満たされないんだろうな。と思った。

結婚の第一波よりも前に結婚をしていた同年代の知人から、離婚することになったという連絡が来た。私は若くして結婚する人=なんだかとても徳が高い人だと思っていた(実際この歳で「誰かに取られたくない」と選択させられるような人間であるはずなので)ので、本当に衝撃だった。
結婚するということは夢が叶ったわけでもゴールだったわけでもなかったんだなと思った。
当の本人は「まあ生活はうまくいかなかったわ〜」とあっけらかんとしていたし、これからもまあ元夫婦として2人ともよろしくと言っていたが、私は多分本人達よりも深刻に捉えてしまっていた。

満たされたいものは満ちることはなくて、消えてほしくないものほど消えていく。本当に意地悪な世界だな。時間も、大切な人との別れも、関係性や距離や感情も、永遠のものなんてひとつもない。私の小さな悩みや付き纏ってくる嫌な思考なんかは永遠じゃなくて救われるけれど、この世の中には「永遠に続いて欲しいのにそうではないもの」が溢れすぎている。

諸行無常って言葉が存在するの、すごいな。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

私はどうしても、「私」を取り巻いている環境を変えたくなくて仕方がない。今仲良い人はずっと仲良くいてほしいし、今手にしているものが今後消えてしまうことは耐えられないように思う。
ただ、実際、物心ついてから今までの間でずっと一緒にいた家族以外の存在はいないし、自分の中の優先順位や考え方も全く異なっている。

私は今、何をすれば自分の中で「自分」に満足できるのだろうか。
大手町のビル街を闊歩できるような人間になれたとて、多分、虚しさは消えない。

「結婚」そのものが眩しく思えているとしても、今すぐに籍を入れられるような、名前もわからない誰かとクリアしたとして、それを「幸せ」と感じられるとは思えない。

心の底から好きな人と一緒になることは多分最大級に「幸せ」なんだろうけれど、それに至る過程で周りを見て落ち込んで自信をなくして、諦めてしまう可能性もある。

多分ずっと満足なんてできないんだろうな、この脳みそである限り。
間違いなく今は、自分以外の誰かから見れば私は「幸せ」に分類されるはずなのに。なんでうまく認識できないんだろう。

自分の中にある「自分の理想」が高すぎて苦しいのかな。そこと現実とを比べてしまっているから満足できないのだろうか。

多分、私の居場所は他でもない私自身が潰しているし、あるはずの永遠の可能性も自虐や諦めで閉ざしてしまうような気がする。

うまく生きられるようになりたい。

多分、まだ現実を見られていないんだと思う。
思ったより青くて情けない自分を受け入れられる勇気が今の私にはないのかもしれない。

他者や世界は、そこまで私には厳しくなくて、むしろ優しいことの方が多い。だけど、自分が自分に(自分が思っているより)厳しすぎるから、それを真っ直ぐ受け取ることができないのだろう。

まずいな。30歳になってまでこんなこと言っている人間は間違いなく「イタい人」だ。
少しずつ、少しずつ、
私は私と、私のままで生きていく覚悟を決めなければならない。
25歳、やっとなんだか自我が芽生えてきたような気がしている。

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