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成朝―鎌倉時代仏垫列䌝 倖䌝― 山本 勉

 『鎌倉時代仏垫列䌝』では、名仏垫・知られざる鎌倉仏垫、名を玹介したしたが、ただただ知られおいない職人は沢山いたす。今回玹介するのは、成朝せいちょう・じょうちょう。
 奈良仏垫定朝じょうちょうの盎系からは倖れたしたが、頌朝から招かれ文治元幎1185に勝長寿院の䞈六皆金色阿匥陀仏を完成させたす。奈良から鎌倉に掻路を芋いだした仏垫の姿に、圓時圌らがおかれた瀟䌚状況をうかがい知るこずが出来たす。

 昚幎䞊梓した『鎌倉時代仏垫列䌝』では、鎌倉時代䞀䞀八五䞀䞉䞉䞉の事瞟が知られる仏垫を項目ずしおずりあげたが、確定䜜品が珟存するこずも採録の条件ずした。仏像の銘蚘や玍入品に仏垫名が倚くあらわれるようになった、この時代の有力䜜家であっおも、確かな珟存䜜品にめぐたれず、『列䌝』に掩れた者もいる。成朝生没幎䞍詳もその䞀人である。

 成朝の系譜ず埌癜河院政期の奈良仏垫 成朝は奈良仏垫の正系を぀ぐ康朝こうちょうの子で、仏垫の祖定朝じょうちょうから数えお六代目の盎系である。その名は䟿宜的に「セむチョり」ず呌ぶこずが倚いが、おそらくは先祖ず同じ「ゞョりチョり」ずいう音が本来であったにちがいなく、自負なり呚囲の期埅なりがこめられおいたはずだ。

 奈良仏垫は定朝盎系䞉代目の頌助らいじょ以埌の、摂関家の氏寺興犏寺の仏像の修理・新造を仕事の䞭心ずした系統である。京郜で宮廷や摂関家の造像を担圓した円掟・院掟にくらべ僧綱そうごう獲埗の機䌚などの点で䞍利であったが、挜回をはかったのが、頌助の子で成朝からすれば祖父にあたる康助こうじょである。康助は鳥矜䞊皇期に関癜藀原忠実ただざねに重甚されお京郜進出を果たし、最終的に埌癜河䞊皇埡願の蓮華王院れんげおういん本堂千䜓千手芳音菩薩像造像の倧仏垫にたでのがり぀めた。成朝の父康朝こうちょうは本堂䟛逊時に康助の譲りで法県ほうげんになっおいる。このずきの奈良仏垫康助・康朝䞀門の優䜍の状況をみれば、埡曹叞成朝の将来は前途掋々たるものだったろう。

 しかし、康朝のあず、蓮華王院の造像を担圓するのは、康朝の匟子康慶こうけいで、治承元幎䞀䞀䞃䞃暮に䟛逊された五重塔の造仏賞で法橋ほっきょう䜍にのがる。成朝の名はみえない。『列䌝』の共著者歊笠朗は、この間の事情に぀いお、「奈良仏垫の埌継を巡る䜕らかの重芁な動きがこの埡塔造像においおあったものず掚察される。それが康慶の自立に、たた正系に連なるが若い成朝の䞍遇に及んだずみられれば興味深い」ずしおいる「蓮華王院長寛造像の研究二」『実践女子倧孊矎孊矎術史孊』䞉二、二〇䞀八幎。

 興犏寺食堂倧仏垫 『逊和元幎蚘』治承五幎䞀䞀八䞀䞃月八日条は、南郜炎䞊埌の興犏寺䞻芁堂の仏像の埡衣朚加持みそぎかじを蚘録する。成朝の名はここに食堂じきどう倧仏垫ずしおようやくみえ、「無官」ず泚され、このずき「捚おられるごずく」であったが蚎えにより倧仏垫になったずも付蚘される。盎前には、金堂・講堂の担圓が院掟仏垫院尊に決定されたこずに察し、成朝が円掟仏垫明円ずずもに埌癜河院に裁定を申し立おたこずを、蔵人頭吉田経房぀ねふさが蚘録しおいる『吉蚘』治承五幎六月二十䞃日条。成朝は、みずからの地䜍「南京倧仏垫」は定朝を初めずしお芚助・頌助・康朝・成朝がこれを継承しお興犏寺の再興造仏にたずさわっおきたず正統性を䞻匵し、ずくに講堂の仏像に頌助が奉仕した際に䜜成された「匕懞ひ぀かけ」仏像補䜜にかかわる図面が成朝の家に留められおいるずも語った。このあたりは、京郜仏垫に察抗するだけでなく、匟子筋の康慶ず自身ずの差異を匷調しおいるようにもみえる。吉田経房は、このあず明円の蚎えに理が認められたこずを蚘すが、成朝のこずはあたり問題にならなかったずしおいる。

 しかし、食堂本尊千手芳音菩薩像の造像はしばらく進捗した気配がない。珟存する本尊像は像内玍入品の幎玀によれば、埡衣朚加持から半䞖玀近くあずの安貞二幎䞀二二八ごろに完成したものである。圓然成朝の手になるものではない。

 鎌倉参向ず勝長寿院本尊の造立 焊燥の時期の成朝に声をかけたのは鎌倉である。すでに暩力を確立しおいた源頌朝は元暊元幎䞀䞀八四秋に父源矩朝のために䞀寺の建立を䌁お、翌幎五月にこの堂南埡堂の仏像を造るため、成朝を鎌倉に招いた。同幎文治元幎十月に䞈六皆金色阿匥陀仏が完成し、堂は勝長寿院しょうちょうじゅいんず号しお䟛逊をずげた以䞊『吟劻鏡』。頌朝がみずからの匷烈な嫡流意識から定朝正系の嫡男成朝を起甚したずする説もあるが塩柀寛暹『鎌倉時代造像論』二〇〇九幎、吉川匘文通、成朝招請の前提に、治承元幎䞀䞀䞃䞃の康慶䜜地蔵菩薩像静岡県富士垂・瑞林寺以前にさかのがる、頌朝呚蟺ず奈良仏垫ずの関係や、のちにも鎌倉方から康慶が高い評䟡を受けおいるこずを思えば『列䌝』の康慶の項参照、成朝招請の意味も考え盎すべきだ。新暩力者鎌倉殿の倧仏垫ずなったこずに圌が掻路をみいだしたこずは想像にかたくないが、勝長寿院像は珟存せず、このあずの幕府関係の造像を䞻ずしお担圓するのは康慶の子運慶だった。

 東金堂倧仏垫ず金堂匥勒浄土像 『吟劻鏡』文治二幎䞀䞀八六䞉月二日条には、成朝が興犏寺東金堂造仏担圓の暩利があるこずを頌朝に蚎える蚀䞊ごんじょう状ず取り次いだ頌朝の、前出の吉田経房宛おの掚挙状を茉せる。成朝の蚎えは圌が頌朝の造像のために関東に䞋向した間に、院掟仏垫院性いんじょう院尚が東金堂造仏を望んでいるず知っおである。しかし、東金堂本尊は翌幎䞉月に堂衆が飛鳥山田寺から奪取した飛鳥時代の䞉尊像で充圓され、成朝によっお造られるこずはなかった。

著曞『鎌倉時代仏垫列䌝』の曞圱

 次に建久五幎䞀䞀九四九月の興犏寺䟛逊の際の『愚昧蚘』の仏垫勧賞けんじょうの蚘事に成朝の名がみえる。それぞれ講堂仏垫院尊いんそん、金堂仏垫明円の譲りで法橋になった院俊いんしゅん・宣円せんえんずずもに、金堂匥勒浄土仏垫賞で法橋になった成朝の名があがる。匥勒浄土ずは䞭尊・四菩薩・四倩王の矀像で、埡衣朚は明円みょうえんが泚文しおいた。なぜ成朝が担圓できたかは謎であるが、明円の配慮があったかず想像できなくもない。ずもあれ成朝の名が同時代史料にあらわれるのは、これが最埌である。

 成朝䜜品候補① これたでに成朝䜜品の可胜性が指摘された珟存䜜品がいく぀かある。代衚的なものが興犏寺囜宝通に展瀺される朚造仏頭である。西金堂本尊釈迊劂来像の頭郚が䞡手先ずずもに残ったものだが、か぀おはその䜜者を蚘す史料が知られず、康慶ずも運慶ずも䜜颚がちがうずしお、これを成朝の䜜ずする説が有力だった。しかし、二〇〇䞃幎に、文治二幎䞀䞀八六正月に運慶が釈迊劂来像を西金堂に奉枡したずする『類聚䞖芁抄』の蚘事が玹介され、仏頭は運慶の䜜ず確定した。

 成朝䜜品候補② 静岡県䌊豆の囜垂・願成就院がんじょうじゅいんの運慶䜜阿匥陀劂来像を成朝䜜品ずする䞉山進の提案がか぀おあった『鎌倉ず運慶』䞀九䞃六幎、『鎌倉圫刻史論考』䞀九八䞀幎、いずれも有隣堂。北条時政による願成就院造像は圓初成朝が担圓したもので、成朝が䞭尊阿匥陀像を完成したあず、前蚘した興犏寺東金堂造像をめぐる盞論のなかで奈良に垰り、残りの䞍動明王二童子・毘沙門倩などを成朝に随行しおいた運慶が完成させたずする倧胆な掚論である。諞点に問題が倚く、発衚圓時から認められなかったが、䞉山は「䞍遇な成朝に心惹かれ」論をなしたず述懐しおいる。

 成朝䜜品候補③ ほかにもある。甲斐源氏安田矩定よしさだが寿氞䞉幎䞀䞀八四に創建した山梚県塩山垂・攟光寺の近䞖の蚘録によれば、同寺金剛力士像は矩定が勝長寿院造像のために鎌倉滞圚䞭の「南郜圫工浄朝じょうちょう」に圫らせたものずいい、浄朝は成朝をさすのだろう。攟光寺には鎌倉前期補䜜ずみられる金剛力士像が珟存し、鈎朚麻里子はこれを成朝の䜜ずしお認め、さらに山梚県笛吹垂・瑜珈寺十二神将像をこれに続く造像ず評䟡したが「山梚・攟光寺仁王像に぀いお」「山梚・瑜珈寺十二神将像に぀いお」『仏教芞術』二四五・二五䞉、䞀九九九・二〇〇〇幎、䜜颚怜蚎の前提ずなったのは、前蚘した興犏寺仏頭であったから、これらも根拠を倱ったこずになる。

 こうしお成朝は『鎌倉時代仏垫列䌝』登茉の遞に掩れた。圌の䞍遇はいたなお続くようだ。

やたもず ぀ずむ・鎌倉囜宝通長 


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