身の程わきまえてちゃ、書けないぜ。
創作大賞に作品を出すとか、noteを毎日投稿するとか、二年前の私が聞いたら「なんのこっちゃ」である。
少し前までの私は、余生を一日でも長く、穏やかに過ごすために、とりあえず頑張って働いて、少しでも多く金を稼げばいいと思っていた。
何歳になるかは分からない。でも、十分な貯蓄ができてから好きなことを始める。会社員としての役目を無事に終え、住宅ローン、子育て、老後資金の目処をつける。心配を一つずつなくしていくことが、人生の目的だった。
しかし、よく考えたら、いつまで生きられるのかなんて誰にも分からない。訪れるかどうかも分からない理想の未来のために、今を我慢して生きる。定年まで勤め上げ、念願だった移住生活を始めた途端、落とし穴にハマる。ようやく自由になったと思ったら、家族に不幸が訪れる。そんな話を何度か聞いているうちに、私は疑問を感じるようになった。
肉体の全盛期を会社に捧げ、ようやく経済的自由を手に入れた頃には、身体がポンコツになっている。ジョークにも程がある。総入れ歯になってから高級レストランに通い始める趣味はない。
人生とは旅である。タバコをふかし、地平線をにらみながら、一度は言ってみたいセリフだ。自分のこれまでを振り返ってみれば、確かに旅だったような気はする。結婚して、子どもが生まれて、働いて、悩んで、迷って、それなりに遠くまで来た。ただ、まだどこにもたどり着いた気がしない。
これは、あれだ。
中年の危機というやつか。
多くの人が人生の折り返し地点で、これまでの生き方や、この先の人生に不安と葛藤を抱くらしい。「おっさんは大変だねえ」と、対岸から眺めていたはずなのに、いつの間にか自分がおっさん側に立っていた。片足を踏み入れたどころではない。もう膝くらいまで浸かっている。不甲斐なし。
まあ、それでも、おっさんにできることはまだ残されている。
シワやシミは増えるし、毛量は減る。動作は遅くなり、立ち上がる時には意味もなく「よいしょ」と言ってしまう。
会社でのキャリアの終点が、少しずつ見えてくる。このまま働き続けた先の立場や収入も、老後の暮らしも、なんとなく予想できる。親として、子どもたちに何をしてあげられたのか。何をしてあげられなかったのか。人生の答え合わせも、大体の見通しがついてくる。
今の自分を父親として採点するなら、八十点くらいだと思う。自分の両親を上回れたのかは分からない。だが、いい線はいっている。少なくとも、赤点になることはないだろう。
完璧ではないが、会社員としても父親としても、それなりに逃げずにやってきた。残りの時間くらい、自分のやりたいことに対して身勝手になってもいいのではないだろうか。
だったら、身の程をわきまえている場合じゃない。
つまらないものですが。恐縮ですが。僭越ながら。恐れながら。お恥ずかしい限りですが。差し出がましいようですが。厚かましいお願いではございますが。
この国には、自分を小さく見せる言葉が山ほどある。手土産まで「つまらないもの」にして渡す。本当は一生懸命選んだくせに。
謙遜は、美徳である。しかし、自分が本当にやりたいことに関しては、ガン無視したほうがいい。自分の作品まで、つまらないものにする必要はない。
与えられた時間が、あとどれくらい残っているのかは分からない。大切な人より先に旅立つかもしれない。逆に、自分が取り残されるかもしれない。未来のことなど、誰にも分からない。
ならば、まだ身体が動き、頭の中に言葉が浮かび、それを書き留める指が動くうちに、書いたほうがいい。
私は無名である。世間的に見れば、何者でもない。だけど、無名の人生を四十年以上過ごしてきたからこそ、分かることもある。
身の程をわきまえている時には、大したことは起こらない。
自分には無理だ。今さら遅い。才能がない。誰にも読まれない。そんな正しい自己分析をしている間、人生は一ミリも動かない。
「自分にもできるかもしれない」
そんな根拠のない、素敵な勘違いができる人間にだけ、女神は微笑むように、この世の中はできている。
とりあえず応募した作品、とりあえず公開したnote。恥をかきながら自分を世間に晒し続けたやつの人生にしか、予想外の展開は起こらない。
創作大賞に何度落選しても関係ない。
noteの有料記事が一部も売れなくても問題ない。
投稿した文章が誰にも読まれず、インターネットの海原を漂流しても、動じない。
もし何も起きなかったら?
その時は、サイゼリヤに行って、ミラノ風ドリアを食べながらハウスワインでも飲もう。私が奢る。ワインが空になる頃には、たぶんまた書きたくなっている。
何年、いや何十年かもしれない。でも続けたその先に、賞を受賞したり、出版社から本を出したりする未来が待っていたら、超アツい。
