【語学寿命】外国語を学ぶ者にとって人生は短すぎるという話
夏になると、「ロシア語を教えてほしい」と叔母から連絡がくる。もうすぐ80歳になる叔母は、毎年夏に来日する推しのロシア人ピアニストと話すために、数年前からロシア語を学び続けている。その姿勢に私は感心する。それと同時にある問いが頭をもたげる。
──私はあと何年外国語を学習できるのだろうか。
これはシニアの語学学習についての話に限らない。外国語を学ぶ人なら、いつかは自分自身の問題として向き合うことになるテーマだと思う。今回は、人生のなかで外国語を学べる時間、いわば「語学寿命」について考えてみたい。
「高齢になると外国語は身につきにくい」という話はよく耳にする。しかし、実際のところはどうなのだろう。少なくとも、今年35歳になる私自身は、10代や20代の頃と比べて語学が身につきにくくなったとは感じていない。むしろ、これまでの経験があるぶん、自分に合った学習法を見極められるようになり、以前よりも上手に学べているという実感すらある。一方で、若い頃のような無茶な詰め込みはもうできない。外国語学習を始めたばかりの頃は、ほとんど理解できない学習言語の映画をひと月の間毎日リピートしたり、テキストのワンフレーズを音源に合わせて20回連続で音読したりと、とにかく物量で押し切るようなスパルタな学習をしていた。基礎もおぼつかないまま現地に行って、体当たりで言語を習得していくというしんどい経験もした。今あの頃と同じことをやれと言われても、おそらく体力がもたないだろう。そう考えると、衰えたのは語学力そのものではなく、学習を支える体力なのかもしれない。
反対に「語学に年齢は関係ない」という説もよく目にする。『わたしの外国語学習法』を書いたハンガリーのポリグロット、ロンブ・カトーや、言語学習プラットフォームのLingQの共同開発者のスティーブン・カウフマンなどは、高齢になっても新しい外国語を学び続けていることで知られている。こうした例を見ると、年齢だけで語学の可能性を決めつけられるものではない。もっとも、彼らは若い頃から外国語を学び続け、「外国語の学び方」そのものを身につけてきた人たちでもある。つまり、昔取った杵柄が高齢になってからの学習の糧になっていることは間違いない。結局のところ、「外国語は何歳まで身につくのか」という問いには、年齢だけでは説明できない。
こればかりは実際に年を重ねてみなければ分からない。カトーやカウフマンのような例には励まされるが、それでも「外国語は何歳からでも始められる」と楽観的には考えられない。社会人をやっていれば、仕事が時間だけでなく気力まで奪っていく。やってみたい外国語はいくらでもあるのに、新しく一から始める余裕はなかなか生まれない。「定年になって時間ができたら始めよう」と、外国語への憧れを老後へ先送りすることも、当然の選択に思える。
しかし、仮に65歳で新しい外国語を始めたとして、その先どれだけの時間が残されていると言えるのか。健康寿命はもちろん、外国語を読み、聞き、話すための認知機能や記憶力が、いつまでも今と同じように働いてくれるかも分からない。寿命や健康寿命よりもさらに限定された「外国語を学べる期間」、さしずめ「語学寿命」を考えると、あまり時間は残されていないことに気づく。例えば、一つの外国語を「十分やった」と思えるまで、私には少なくとも5年はかかる。そう考えると、仮に65歳から80歳までの15年間を語学に費やせるとして、本気で取り組める外国語は3つしかない。そう考えた瞬間、本当に老後まで待っていていいのかと思うのである。語学は、一度集中して終わらせられる趣味ではない。毎日少しずつ積み重ね、その蓄積が何年も続いて初めて自分の言葉になる。だからこそ、「あと何年積み重ねられるのか」という問いが、私には切実なのである。
私は32歳のとき、仕事中の負傷をきっかけに、大げさながら「人間はいつ死ぬか分からない」と痛感した。それ以来、私は収入よりも可処分時間を優先する働き方を選び、やりたいことをやらないならばなんのための人生だと思いながら語学にできるだけ多くの時間を注ぎ込むようになった。転機となった怪我をしたときからはフランス語とドイツ語を中心に多言語学習に取り組んでいる。仮にこのままのペースで語学学習が継続できたとしても、手を出せる外国語はせいぜいあと10言語くらいだ。そう考えると、何語を学習するのか、という選択は非常に重たいものに思える。もちろん、軽く触れてみるだけならもっと多くの言語と出会えるだろう。しかし、私が語学に求めているのは、その言語で文学作品が読めるといった深いレベルでの読解能力であるので、「次に何語を学ぶか」は、そのまま人生の数年間をどう使うかという選択でもある。もちろん、外国語を学ぶことは人生の義務ではないが。
30代になってから、自分の身体だけでなく、社会そのものもまた「これからは下り坂なのかもしれない」という感覚を抱くようになった。私が子どもの頃は、「老後に好きなことをすればいい」という考え方には現実味があった。将来が安泰であれば、定年まで仕事に追われ、「老後になったら語学を始めよう」という人生設計もあり得たのだろう。しかし、毎年のように更新される猛暑や、世界大戦も待ったなしかと思わされる国際情勢を見ていると、私はどうしても明るい未来を思い描けない。歯止めの効かない物価高もそうだが、これからはどんどん貧しくなっていくだろうという漠然とした絶望感に日々侵されている。こんな時代に生きていると、20年後、30年後の自分を前提に人生設計を立てること自体がナンセンスに思えてくる。そもそもその頃まで情熱を保っていられるだろうか。時間はあっても、体力や認知能力は今と同じではないだろう。そもそもからして、安心して趣味や学びに没頭できるような老後が私らの世代には約束されているとも思えない。だから私は、「いつか」を待つよりも、今しかできない語学を優先したいと思っている。
いくつになろうが語学学習を続けたい、と思う。けれど、死ぬ前日まで語学学習をしている自分の姿は想像できない。寿命や健康寿命以上に、語学寿命は短い。到達しなければならない明確なゴールを語学に置いているわけではないが、吸収できるうちに何でもやって吸収しておこうという気持ちが、私を日々の学習に向かわせる。なぜ人は、いずれ死ぬと分かっているのに、何かを身につけようとするのか。どれだけ外国語を身につけたとて、死後の世界には何も持って行けない。過程にこそ意味があるのか。そうであれば今日も語学学習に取り組めることをありがたいと思うべきなのか。高齢になっても外国語学習に勤しんでいる人を見ると、私はどのように語学寿命を全うすればいいのか、という思索に誘われてしまう。
人の一生はあまりにも短い。20代前半の頃までは、人生はあらゆる側面において上がっていくだけだった。体力にしても、知能にしても、経験を重ねれば重ねただけ自分という人間が上向いていく感覚があった。しかし、20代後半からは、成長は横ばいになり、何かを獲得するために動くというよりも、いかに残ったものを大切にするのかというフェーズに入ってくる。人生の先輩は口を揃えて「30過ぎると急に“くる”」とおっしゃるが、それは、自分が人生の下り坂に差し掛かっていることをさまざまな場面で突き付けられるということなのかもしれない。ちょっと重い物をもっただけでぎっくり腰になったり、一晩徹夜しただけで何日もフラフラしたり、美容院で白髪を発見されたり、それはさまざまな形をとってあらわれてくる。もちろん、40代、50代以上の人にとっては「まだまだ全然若いでしょ」という感じなのだろうが、人は結局自分基準で評価しがちだ。20代は10代の人を見て自分はおじさんおばさんだと自嘲し、70代は60代の人に老いさらばえるにはまだ早いと言う。
今年も叔母から「ロシア語を教えて」と連絡が来る。もうすぐ80歳になる今も、新しい言語を覚えようとする情熱には脱帽する。そして私は、その姿を見るたびに、自分にはあとどれくらいの時間が残されているのだろうと考える。人は老いていくことを忘れがちだ。だからこそ、「いつか時間ができたら」という考え方は、思っている以上に危ういのかもしれない。時間ができる頃には、情熱が薄れているかもしれないし、体力や認知能力が今と同じとは限らない。語学寿命が何歳までなのかは分からない。けれど、人には必ず、何かを始められなくなる日が来る。その日がいつ訪れるのか分からないからこそ、「いつか」という言葉で自分を騙すのはもうやめようと思っている。
語学に限らず、読書でも、楽器でも、創作でも、「いつかやりたい」と思っていることは誰にでもあるだろう。私は、老後のために今日を我慢するよりも、今日できることを今日やりたい。叔母からの連絡を受けるたびに、私にとって語学とは、外国語を学ぶこと以上に、「人生には限りがある」という当たり前の事実を思い出させてくれる営みなのだと感じる。
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