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氎の䞭で、あなたに䌚う䞀暪道誠私論ずいう゚ッセむ

1 起点


『みんな氎の䞭「発達障害」自助グルヌプの文孊研究者はどんな䞖界に棲んでいるか』ずいうタむトルに、はじめお出䌚ったずきのこずを芚えおいる。銙川県立図曞通の棚で背衚玙を芋ただけなのに、䜓の奥のほうで䜕かがかちりず音を立おた。ああ、これだ、ず思った。䜕が「これ」なのか、そのずきはただうたく蚀えなかった。


私はずっず、短歌を読むずきも䜜るずきも、「みづ(æ°Ž)」ず「ひかり(光)」ずいう二぀の蚀葉に匷く匕き寄せられおきた。汀に立぀歌、氎際で呌吞を぀なぐ歌。なぜそこたで氎ず光に惹かれるのか、自分でもうたく説明できたこずがなかった。ただ、䞖界を芋るずき、私にはい぀も、䜕かを䞀枚隔おお芋おいるような感芚がある。くっきりずした茪郭ではなく、ゆらぎ、屈折し、ずきに二重に芋える光。私にずっお䞖界ずは、突き詰めれば「氎の䞭を屈折しお届くひかり」そのものだった。

あけがたのみぎはの雚に濡れながら反る橋梁のごずき橋越ゆ

倧蟻󠄀隆匘『氎廊』

この歌集に出䌚っおから、私は自分の短歌の奜みを「氎ず光に集玄できる」ずたで蚀い切れるようになった。けれど、その感芚を誰かに説明しようずするたび、うたく蚀葉が远い぀かなかった。氎の䞭の耇雑さ、䞀それはゆらぎ、枩床、屈折、透明さず䞍透明さの同居だ䞀を、短歌䞀銖の䞭に閉じ蟌めるこずはできおも、それを解説しようずした瞬間に、感芚そのものが逃げおいっおしたう気がしおいた。

そこに『みんな氎の䞭』ずいうタむトルが珟れた。たった六文字で、あの耇雑さを䞞ごず抱えたたた、䞀冊の本の名前にしおしたう匷さ。氎の䞭にあるのは光だけではない。ゆらぎがあり、枩床があり、息苊しさがあり、それでもどこかに矎しさがある。その党郚を切り捚おずに、しかし説明過倚にもならずに、䞀蚀で提瀺しおみせる。この圧瞮力に、たず打たれた。

自分にしか芋えおいないず思っおいた䞖界の芋え方を、他人の蚀葉で、しかもここたで正確に芋せおもらったのは、はじめおの経隓だった。芋せられた、ず思った。説明されたのではなく、芋せられた。この違いは、たぶんこの゚ッセむ党䜓を通じお、私が繰り返し立ち返るこずになる違いだず思う。

2 確認ずしおの蚂正


ただし、ここで急いで蚂正しおおかなければならないこずがある。「みんな氎の䞭」ずいうタむトルは、「党員が氎の䞭で生きおいる」ずいう普遍的な宣蚀ではない、ずいうこずだ。

これは、暪道さん自身の目に映る䞖界の蚘述である。ASDずADHDの蚺断を受けた暪道さんずいう䞀人の曞き手から芋える䞖界が、ゆらめき、がんやりずした氎の䞭にある(それは地獄行きのゞェットコヌスタヌずしお)—それだけのこずだ。もし私が「氎の䞭にいるのは私だけではなかった」ずいうふうにこの本を受け取ったのだずしたら、それは私の偎の読み違いになる。暪道さんが描いおいるのは、あくたで「暪道さんの氎の䞭」であっお、「みんなの氎の䞭」ではない。

けれど、ここが䞍思議なずころなのだが、その蚘述があたりにも粟緻で、あたりにも誠実だったせいで、私はこの本を読みながら、自分の「私」が、い぀のたにか「私たち」に倉わっおいくのを感じおいた。䞖界の芋え方は、人それぞれたったく違う。暪道さんの氎の䞭ず、私の氎の䞭は、同じ氎ではない。それでも、「私」ずいう䞀人称の芖点を、これほどたでに豊かな蚀語で再珟しおみせられるず、読者である私の䞭にも、自分自身の「私」の茪郭が、はじめおくっきりず立ち䞊がっおくる。そしおその「私」が、暪道さんの「私」ず、ふず隣り合わせに感じられる瞬間がある。それは同䞀化ではない。䞊んで立っおいる、ずいう感芚に近い。

「みんな」ずいう蚀葉が指しおいるのは、暪道さんの䞖界がみんな氎の䞭だ、ずいう事実であっお、読者である私たでもがその氎の䞭に含たれる、ずいう意味ではない。それでも、この本を読み終えたずき、私は䞀人ではなくなっおいた。その理由を、私はこの゚ッセむを通じおもう少し正確に蚀葉にしおみたい。


3 空癜


暪道さんの著曞は、単著・共著を合わせるずすでに45冊(それ以䞊先日の掚し語りの回では45冊ず銘打っおいた蚘憶がある)にのがるずいう。文孊研究者ずしおの専門的な仕事に加えお、圓事者研究、オヌプンダむアロヌグ、宗教二䞖問題、䟝存症、コミュニケヌション論ず、扱う䞻題は幎を远うごずに広がり続けおいる。

それだけの分量の仕事をしおきた曞き手に぀いお、個々の曞評や感想は、探せばいくらでも芋぀かる。『みんな氎の䞭』の氎䞭感芚の描写に぀いお語るもの、『唯が行く圓事者研究ずオヌプンダむアロヌグ奮闘蚘』の圓事者研究ずオヌプンダむアロヌグぞの奮闘に぀いお語るもの、『むスタンブヌルで青に溺れる』文庫化埌は『発達障害者が旅をするず䞖界はどう芋えるのか』の旅の蚘録に぀いお語るもの。どれも、その䞀冊に぀いおの感想ずしおは十分に読み応えがある。



けれど、その䞀冊䞀冊を貫いお流れおいる、䞀぀の思想。そう、暪道さんずいう曞き手が、デビュヌ䜜から最新刊たで、圢を倉えながら手攟さずに持ち続けおいるものが䜕なのかを、著䜜矀党䜓ずしお論じたものを、私はただ芋たこずがない。探し足りないのだず思うけれど。

これは批刀ではない。むしろ圓然のこずだず思う。それだけ倚䜜で、それだけ䞻題が広がり続けおいる曞き手の党䜓像を䞀望するこずは、単玔に難しい。けれど、だからこそ、そこに空癜がある。個々の朚は語られおいるのに、森の圢はただ誰も描いおいない。

たずえば『唯が行く 』は、圓事者研究ずオヌプンダむアロヌグずいう、性栌の異なる二぀の実践に、暪道さんが同時に飛び蟌んでいく奮闘の蚘録だ。ここではただ、二぀の実践は完党には統合されおいない。䞊走しながら、互いに手探りで距離を枬っおいる段階に芋える。文庫化された『発達障害者が旅をするず䞖界はどう芋えるのか』単行本『むスタンブヌルで青に溺れる』になるず、氎䞭の感芚䞖界は、今床は地理的な移動ずいう軞に展開される。自分の内偎にあった氎が、倖偎の䞖界そのものず地続きになっおいく過皋が描かれおいる。

『もしもこの䞖に察話がなかったら。オヌプンダむアロヌグ的察話実践を求めお』では、暪道さん自身が運営する自助グルヌプでの察話実践が、フィクションを亀えた物語ずしお再構成される。ここではじめお「ポリフォニヌ」ずいう蚀葉が、はっきりずした茪郭を持っお提瀺される。同じ意芋であっおも、自分の立っおいる堎所から、自分なりの声で語るこず。これは、単著による内面の吐露から、耇数の声が亀わる堎の蚭蚈ぞず、暪道さんの関心が明確に移動したこずを瀺しおいる。


続く『自助グルヌプの哲孊察話䞀孀独瀟䌚に必芁な、もうひず぀のセヌフティネット』では、その自助グルヌプずいう堎そのものが、孀独な瀟䌚におけるセヌフティネットずしお、哲孊的に問い盎される。個人の氎䞭感芚から出発した仕事が、瀟䌚制床ぞの問いぞず接続されおいく。

そしお、だいたりこさんずの共著二冊(『空気が読めない倧孊教員ず自己嫌悪のYouTuberはみずからのコミュニケヌション困難にどう向きあっおきたか』ず『自分の匱さを研究しおみた。圓事者研究ずいう新しい冒険』)では、圓事者研究ずいう営みそのものが、察話の盞手を埗お、䞀人称の蚘録から、二人称のあいだで亀わされる察話ぞず、もう䞀段階、開かれおいく。



この共著ずいう圢匏の倉化そのものが、芋過ごせない意味を持っおいるず思う。単著ずしお自分の内面を語り尜くす、ずいう初期のスタむルから、察話の盞手を埗お、二぀の声が亀互に響き合う本の構造そのものぞず、暪道さんは移動しおきた。内容の䞻題だけでなく、本ずいう噚の蚭蚈そのものが、䞀人称から耇数の声ぞず開かれおいっおいる。これは、のちに詳しく論じる「ポリフォニヌ」ずいう抂念が、理念ずしおだけでなく、実際の執筆圢匏ずしおも、時間をかけお実践されおきたこずを瀺しおいるのではないかず思う。

共著ずしおは頭朚匘暹さんずの『圓事者察決 心ず䜓でケンカする』や村䞭盎人さんずの『海球小説 䞀次䞖代の発達障害論』も芋逃せないが未読。なにしろ暪道さんは著曞が倚い。私はただ暪道誠䞀幎生なので远いきれない。

こうしお䞊べおみるず、暪道さんの仕事は、䞀貫しお同じ堎所にずどたっおいるわけではない。内偎の氎䞭感芚の蚘述から、察話の堎の蚭蚈ぞ、そしお察話そのものの実践ぞず、着実に軞を移動させおきた。にもかかわらず、倚くの感想や曞評は、その䞀冊が扱う䞻題—発達障害、旅、察話、コミュニケヌション—ごずに語られ、この移動そのものを軞ずしお論じたものは、私の知る限りただない。

暪道さんがこれほどの速床で曞き続けおいるこず自䜓も、実は重芁な手がかりだず思う。蚺断を受けおから数幎のうちに45冊近くを䞖に出すずいう執筆量は、圓事者研究を立ち止たっお振り返る間もなく、次々ず実践し盎すこずで積み重ねられおきたものだ。だずすれば、著䜜矀を貫く思想は、最初から完成した蚭蚈図ずしお存圚しおいたのではなく、曞きながら、実践しながら、その぀ど発芋され盎しおきたものなのかもしれない。だずすれば、この空癜を埋める䜜業もたた、確定した答えを提瀺するこずではなく、暪道さんの「研究」ずいう営みに、もう䞀぀の声を差し出すこずでしかありえないのだず思う。

私は文孊研究者でも、曞評家でもない。ピアサポヌタヌずしお自助グルヌプを運営し、行政の珟堎を経隓し、同時に短歌を䜜り、批評の堎に身を眮いおきた人間ずしお、この空癜を、自分の立ち䜍眮からなら埋められるかもしれないず思った。それは思い䞊がりかもしれない。それでも、曞いおみたい。


4 応答


もう䞀぀、正盎に曞いおおかなければならないこずがある。私が最近、自分の䞭心的なテヌれずしお繰り返し語っおいる「短歌の私ず自助グルヌプの私」ずいう䞻題は、暪道さんの本を読むこずから生たれた。

短歌には「自泚自解犁止」ずいう、暗黙のルヌルがある。歌人は自分の歌を自分で説明しおはいけない、ずいう䞊䜍の芁請だ。䜜った本人が「この歌はこういう意味です」ず語っおしたった瞬間に、歌は倚様な読みに開かれる可胜性を倱う。歌䌚で歌が匿名で出されるのも、この「自泚自解犁止」を制床ずしお支えるための工倫だ。もちろん䜜者名を最初から明かす歌䌚もあるが、䞀般的なのは䜜者を䌏せお批評する圢だろう。

䞀方で、自助グルヌプや圓事者掻動の珟堎では、むしろ自己開瀺—「自分の経隓はこういうものでした」ず、自分の蚀葉で語るこずそのもの䞀が、支揎であり回埩であるずされおいる。

短歌の䞖界で私に求められる沈黙ず、自助グルヌプの珟堎で私に求められる開瀺。この二぀のあいだで、私はずっず匕き裂かれるような感芚を持っおいた。どちらも「誠実さ」の名のもずに芁求されおいるのに、芁求されおいる振る舞いは正反察だからだ。

このゞレンマに、はじめお茪郭を䞎えおくれたのが、暪道さんの圓事者研究だった。暪道さんが提瀺する「研究」ずいう営みは、確定した自己申告ずしお自分を語るこずではない。仲間ずの察話の䞭で、絶えず曎新され続ける仮説ずしお自分を語るこずだ。この「研究」ずいう捉え方に觊れたずき、短歌批評における「読みの曎新」、䞀銖の解釈が、時間をかけお、耇数の読み手の察話の䞭で曎新され続けおいくずいう構造ず、驚くほど近いものがあるこずに気づいた。

自泚自解犁止ず自己開瀺は、正反察の芁請に芋える。けれど、「確定した答えずしお語らない」ずいう䞀点では、実は぀ながっおいる。歌人は自分の歌を説明しないこずで、読みを他者に開く。圓事者は自分を「研究」ずしお語るこずで、自分に぀いおの理解を、閉じた自己申告ではなく、曎新され続ける察話に開く。どちらも、「私」を最終的な正解にしないための䜜法なのだ。

暪道誠さん。このテヌれは、あなたの本を読むこずがなければ、私の䞭で蚀葉になるこずはなかった。だから、この゚ッセむは、私にずっお単なる感想文ではない。あなたの蚀葉ぞの、遅れおきた応答のようなものだ。


5 栞—二぀のポリフォニヌ


この゚ッセむの䞭心に眮きたいのは、歌䌚ず自助グルヌプずいう、䞀芋たったく異なる二぀の堎の、暩嚁のあり方に぀いおの気づきだ。

歌䌚には歌䌚の掟がある。「私が䜜者だから、私の読みが正解だ」ずいう声を、あらかじめ封じる。䜜者名を䌏せお歌を出すこずで、参加者はそれぞれ、自分の立っおいる堎所から、自分なりの読みを差し出すこずができる。䜜者本人の暩嚁—「本圓はこういう意味で曞いた」ずいう最終審玚—を意図的に消すこずによっお、䞀銖は耇数の読みに開かれる。倚様性は、暩嚁を取り陀くこずによっお生たれる。

䞀方、暪道さんが䞻宰する圓事者研究の自助グルヌプ「宇宙生掻」には、宇宙生掻の掟がある。ここには匿名性はない。アノニマスネヌムを持った人間が集たるずいう点では匿名だが、むしろ暪道さんずいう固有の名前を持った䞀人の人間が、堎の䞭心にいお、参加者の語りを聞き、ずきに鋭く、内面を蚀い圓おるように敎理しおいく。私が実際にこの堎に参加しお感じたのは、これはある皮の「暩嚁」の働きだ、ずいうこずだった。誰かの蚀葉を借りるのではなく、暪道さんずいう䞀人の声が、はっきりずした圢で堎に介入する。

䞀芋するず、この二぀は正反察の運動に芋える。歌䌚は暩嚁を消すこずで倚様性を生み、自助グルヌプは暩嚁ファシリテヌタヌずしおの暪道さんの鋭さそのものが、堎に倚様性を生む装眮ずしお機胜しおいる。暩嚁を消すのか、暩嚁を働かせるのか、それは矛盟しおいるようにみえる。

けれど、少し時間をかけお考えるず、この二぀は、実は同じ構造の、二぀の異なる珟れなのだずわかる。歌䌚にも、自助グルヌプにも、共通しお「テヌマ」ずいう、䞀぀の掟が存圚する。歌䌚のテヌマは短歌そのものであり、自助グルヌプのテヌマは圓事者の語りそのものだ。䞀぀のテヌマ、䞀぀のルヌルが堎を成立させおいるずいう点で、この二぀はたったく同じ構造を持っおいる。

違うのは、そのテヌマずいうルヌルの䞭で、倚様な解釈をどうやっお導き出すか、ずいう方法だけだ。歌䌚は、暩嚁䜜者の正解を消すこずによっお、倚様な読みを可胜にする。自助グルヌプは、暩嚁暪道さんずいう固有の声が、参加者それぞれの䞭に眠っおいる異なる声を匕き出す觊媒ずしお働くこずによっお、倚様な語りを可胜にする。暩嚁の有無が察立しおいるのではない。暩嚁の䜿い方が違うだけなのだ。

この気づきは、暪道さんが著䜜の䞭で繰り返し詊みおきたこずの説明にもなっおいるず思う。暪道さんは、圓事者研究ずいう営みを、自然科孊的な蚘述ずしおではなく、文孊や芞術ず接続する圢で提瀺しおきた。孊術的な蚀葉、あるいは医孊的な蚀葉は、しばしば䞀぀の正解(蚺断、症䟋、暙準的な経過)を匷いる暩嚁ずしお働く。暪道さんは、そこに文孊の蚀葉を持ち蟌むこずで、圓事者の語りを、単䞀の症䟋報告から、耇数の読みに開かれた䜜品ぞず倉えおきた。これは、歌䌚が匿名性によっお行っおいるこずず、圓事者研究が暪道さんずいう固有の声によっお行っおいるこずの、䞡方を暪断する営みだず思う。

この構造に぀いお考えるずき、もう䞀぀、思い出す議論がある。圓事者掻動をめぐっお、圓事者の「䞻暩」から圓事者の「研究」ぞの移行を、リチャヌド・ロヌティによるアむデンティティ・ポリティクス批刀ず重ねお論じる議論を、先日YouTubeで目にしたこずがある。「䞻暩」ずいう蚀葉は、圓事者自身が自分に぀いおの最終的な決定暩を持぀、ずいう構えを含んでいる。それは䞀芋、圓事者の尊厳を守る蚀葉のように響く。けれど「䞻暩」ずいう蚀葉には、同時に、圓事者の自己申告を、誰も怜蚌できない最終審玚にしおしたう危うさもある。

「研究」ずいう蚀葉は、その最終審玚を手攟す。圓事者自身の語りもたた、仲間ずの察話を通じお、繰り返し怜蚌され、曎新されおいく䞀぀の仮説にすぎない、ずいう立堎をずる。これは、圓事者の暩嚁を匱めるこずのように芋えお、実際には、圓事者の語りを、孀立した独癜から、他者ずの関係の䞭で育っおいく生きた蚀葉ぞず開き盎す詊みなのだず思う。

歌䌚における「自泚自解犁止」も、同じ運動の䞀郚ずしお読むこずができる。歌人が自分の歌の最終的な意味を確定させないこずは、歌人の暩嚁を匱めるこずではない。むしろ、その歌を、䜜者䞀人のものではなく、読み手たちずのあいだで育っおいく共有財産にするための䜜法だ。「䞻暩」を手攟すこずず、「研究」ずしお開き続けるこずは、圓事者掻動の蚀葉においおも、短歌の蚀葉においおも、同じ䞀぀の倫理を指し瀺しおいる。暪道さんの仕事の背骚には、この倫理が䞀貫しお流れおいるように、私には芋える。

粟神科医の斎藀環さんは、暪道さんの仕事を「圓事者批評」ずいう新しいゞャンルの誕生ずしお䜍眮づけおいる。埓来の圓事者研究の倚くが自然科孊的な蚘述を志向しおきたのに察し、暪道さんは文孊や芞術ずの接続を遞んだ。これは単なる文䜓䞊の奜みではないず思う。自然科孊的な蚘述は、しばしば䞀぀の正しい説明にたどり着くこずを目指す。文孊的な蚘述は、耇数の解釈が䞊び立぀こずを、むしろ豊かさずしお匕き受ける。暪道さんが圓事者研究を文孊に接続したのは、圓事者の語りを、単䞀の正解ぞず収斂させないための、方法論的な遞択だったのではないか。私はそう読んでいる。

斎藀環さんはさらに、この本が近幎泚目されおいる「䞭動態」ずいう文法抂念—胜動でも受動でもない、その倖偎にある圚り方—を、発達障害者にずっおは特別な理論ではなく、日垞的に生きられおいるモヌドずしお提瀺しおいる、ず指摘しおいた。䞭動態ずは、行為の䞻䜓が、行為を完党にコントロヌルしおいるのでも、完党に受け身であるのでもない、その䞭間にある態床を指す蚀葉だ。この芖点は、ここたで述べおきた「暩嚁」の話ずも、実は぀ながっおいるず思う。歌䌚における䜜者は、自分の歌を完党にコントロヌルする䞻䜓ではないし、かずいっお読み手にすべおを委ねる受け身の存圚でもない。宇宙生掻における暪道さんも、参加者を䞀方的に導く䞻䜓ではないし、かずいっお堎に流されるだけの存圚でもない。どちらも、胜動ず受動のあいだにある、䞭動態的な立ち䜍眮から、堎を成立させおいる。暪道さんが発達障害者の䞖界を語るために持ち出した蚀葉が、著䜜矀党䜓の構造そのものを、期せずしお蚀い圓おおしたっおいるように、私には芋える。

『もしもこの䞖に察話がなかったら。』で描かれる「ポリフォニヌ」ずいう抂念(倚声性。同じ意芋であっおも、自分が立っおいる堎所から、自分なりの声で語るこず)も、この構造の延長線䞊にある。ポリフォニヌは、声を䞀぀に揃えるこずの吊定であるず同時に、それぞれの声が、それぞれの立ち䜍眮から響き続けるこずを蚱す仕組みでもある。歌䌚のポリフォニヌず、宇宙生掻のポリフォニヌは、生成の方法こそ違うけれど、目指しおいる堎所は同じだ。誰か䞀人の声が、他のすべおの声を代衚しおしたわないこず。

この「研究」ずいう構えは、私が普段、ピアサポヌトの珟堎で倧切にしおいる感芚ずも重なる。圓事者の蚀葉を、確定した蚺断や属性ずしおではなく、その぀ど曎新されおいく生きた語りずしお受け取るこず。これは技術ずいうより、態床の問題だず思う。暪道さんの著䜜を読むたびに、私はこの態床を、繰り返し確認し盎しおいる気がする。

ただし、ここたで理屈ずしお敎理しおきたこずず、実際に暪道さんずいう䞀人の人間に䌚ったずきの手觊りは、必ずしも䞀臎しない。理念ずしおの暩嚁の䜿い方ず、察面で受け取った印象ずのあいだには、ただ埋たらない溝がある。その溝に぀いお、次に曞いおおきたい。

私が暪道さんの著䜜矀党䜓を通じお、最も深く胞を打たれるのは、この䞀点だず思う。暪道さんは、自分自身の匱さや倱敗を、これでもかずいうほど赀裞々に開瀺する曞き手であるず同時に、他者の声を単䞀の物語に回収しない、ずいう芏埋を、驚くほど培底しお守り続けおいる曞き手でもある。開瀺するこずず、回収しないこず。この二぀は、簡単には䞡立しない。けれど暪道さんの仕事は、その䞡立を、䞀冊たた䞀冊ず、根気匷く実践し続けおきた蚘録なのだず思う。


 å…­ã€€ç·ŠåŒµâ€”実圚ず文章のあいだ


理屈だけを語っお終わるのは、ラブレタヌずしお誠実さを欠く気がする。だから、少し個人的なこずも曞いおおきたい。

私は䞀床だけ、実際に暪道さんにお䌚いしたこずがある。京郜で行われた「宇宙生掻」に、はじめお察面で参加したずきのこずだ。挚拶を亀わした瞬間、正盎に蚀うず、私は少し戞惑った。ぶっきらがう、ずいう蚀葉が、そのずきの印象に䞀番近い。愛想がいいわけでも、初察面の盞手に気を遣うタむプでもない。䌚話に、ある皮の距離があった。

その距離感は、䌚が始たっおからも倉わらなかった。参加者それぞれが抱えおいる悩みを、暪道さんはばさばさず手際よく敎理しおいく。ずきには、こちらの内面をグサリず蚀い圓おるような、鋭い指摘が飛んでくる。それは決しお冷たいものではなかったけれど、優しく包み蟌むような柔らかさずも違った。

私は戞惑いながら、同時に考えおいた。この人が、あの本を曞いた人なのだろうか。自分の性的志向や䟝存や、宗教二䞖ずしおの傷たでも、これでもかずいうほど赀裞々に、恥ずかしさごず差し出しおみせる曞き手ず、目の前で堎を鋭く統率しおいるこの人物は、私の䞭でうたく重ならなかった。

著䜜の䞭の暪道さんは、自分の私性を、惜しみなく他者に開いおいる。けれど察面の暪道さんは、むしろ他者の私性を切り開く偎に立っおいる。開く人ず、開かせる人。この二぀の圹割は、同じ䞀人の人間の䞭に、どうやっお同居しおいるのだろう。

正盎に蚀うず、私はこの問いに、ただ答えを出せおいない。答えを急いで出すこずは、たぶんこの人を、単玔化するこずになる。だから、解けないたた、ここに眮いおおきたい。ただ、著䜜の䞭の暪道さんの誠実さを知っおいるからこそ、察面での距離感を、単なる「玠っ気なさ」ずしお片付けたくない、ずいう気持ちだけは、はっきりずある。

その垰り道、私は自分が持参した歌集『すべおが倕陜』を、暪道さんに手枡した。私が暪道さんの著曞に初めお觊れたずき、Twitterをフォロヌし著䜜の感想を述べたずころ、暪道さんから、文孊ず圓事者掻動の䞡方を理解できる人だ、ずいう蚀葉をいただいた。その蚀葉を受け取ったずき、私は、自分がこれから䜕を曞くべきなのか、はじめおはっきりず感じた気がした。


7 おわりに—経隓の翻蚳者ずしお


ピアサポヌタヌずは䜕か、ず聞かれるたびに、私はい぀も同じ答えに行き着く。経隓の翻蚳者だ、ず。

自分自身の経隓を、ただ蚀葉になっおいない誰かの経隓ず、そっず䞊べおみせるこず。専門甚語でも、蚺断名でもなく、生きられた蚀葉ずしお、経隓ず経隓のあいだに橋をかけるこず。それが、私がこの仕事に芋出しおいる栞心だず思っおいる。

暪道さんの本を読むたで、私はこの仕事の茪郭を、これほどはっきりずした蚀葉にするこずができなかった。文孊の蚀葉ず、圓事者の蚀葉。短歌の私ず、自助グルヌプの私。歌䌚のポリフォニヌず、自助グルヌプのポリフォニヌ。暪道さんの著䜜矀は、これらすべおが、実は䞀぀の営みの、異なる珟れにすぎないずいうこずを、私に教えおくれた。

冒頭に曞いた「氎の䞭を屈折しお届くひかり」ずいう感芚に、最埌にもう䞀床戻りたい。氎の䞭では、ひかりはたっすぐには届かない。ゆらぎ、屈折し、ずきに二重に芋える。それでも、届かないわけではない。むしろ、その屈折があるからこそ、ひかりは氎の䞭にいる者の目に、はじめお芋える圢で届く。

暪道さんの蚀葉も、私にずっおはそういうひかりだった。たっすぐな説明ずしおではなく、屈折した、ゆらぎを含んだ蚀葉ずしお届いた。だからこそ、私の「私」は、い぀のたにか「私たち」になった。

今日もたた、私は氎の䞭から、誰かの声を掬っおいる。この文章もたた、そうした営みの、ささやかな䞀぀の蚘録ずしお、ここに眮いおおきたい。


いいなず思ったら応揎しよう