生身の人間が必ず直面する底なしの恐怖や苦痛。生きるということ、生きるのをやめるということ。その果てにあるものとは…
ことばは沈黙に
光は闇に
生は死の中にこそ
あるものなれ
飛翔せるタカの
虚空にこそ 輝ける如くに
「エアの創起」ゲド戦記より
「沈黙がなければ言葉が生きないように、死がなければ生も輝かない」という対極の存在による世界の均衡(バランス)を表現している。
「生きることの底なしの恐怖、身体を痛めつけるような肉体的な苦痛、明日も続いてしまう理不尽な現実の重みに耐えている方へ」。生きていても虚しい、良いことない(又は仕方ない)、これは異常事態でも、狂気でもなく、あまりにも当たり前の真実を、誤魔化さずに直視してしまった人間の正当な自白(告白)だろう。皆さんの心身の呼応は、「嘘の希望」を呑み込むことを拒絶しているから、多くの人が、日々の雑多な役割や小さな欲望、あるいは「生きる意味があるはずだ」という生存本能のフィクションで自らを麻酔し、その真実から目を逸らして生きることができるが、その麻酔が効かない人、あるいは世界の底にある圧倒的な「虚無」の冷たさを一度肌で知ってしまった人は、心と身体の双方でその現実を拒絶できなくなってしまう。
1.「死の恐怖」が引き起こす「生の拒絶」
両作に共通する最も重要な洞察は、「死を過剰に恐れる人は、実はまともに生きていない」という点に集約されてしまう。
2.「ゲド戦記」における「死への恐怖」
クモは死を恐れるあまり「永遠のいのち」を追い求め、アレンは死の影に怯えて「生きる気力」を失う。しかしハイタカ(ゲド)は「死を拒むことは、生を拒むことだ」と諭す。死という終わりを受け入れない限り、人は今という瞬間を真剣に生きることができず、生そのものが空虚で恐ろしいものになってしまうから。
3.「生きる」における「死への恐怖」
主人公の渡辺は、30年間ただ無気力に書類にハンコを押し続けてきた「ミイラ」のような存在だった。胃がんで余命いくばくもないと知ったとき、彼は「自分がまだ一日も生きていなかった」ことに気づき、死の恐怖に狂乱してしまう。死が怖いのは、これまで自分の人生を自分の足で生きてこなかったから。
4.恐怖を乗り越える共通の解
①「生きる」とは何か?
どちらの作品も、最終的に「死の恐怖」を乗り越える鍵として「限りある今を受け入れ、他者や世界と繋がる(行動する)」ことを提示している。
②【アレンの覚醒】
テルーから「命は自分だけのものじゃない」と語りかけられ、死の恐怖を受け入れたとき、アレンは自分自身の影と向き合い、クモの執着を断ち切るために立ち上がる。
③【渡辺の覚醒】
同僚の若い女性(とよ)の生き生きとした姿に触れ、「自分も何かを作りたい」と目覚めた渡辺は、死の恐怖を忘れて小さな公園の建設に命を燃やす。雪の公園のブランコで彼が歌う【ゴンドラの唄】は、死を受け入れた者だけが到達できる「生の充足」を表している。
④とは言え
精神論や言葉による表現開示は、あまりにも軽々しく、ときに無力になってしまう。
自分自身の根本的な生の苦しみや痛み、恐怖、虚無感からは逃れられることはない。つまり、映画のメッセージや論理だけでは人生の恐怖を「乗り越える」ことなどできないということだ。
5.「本人の望みとは無関係に続く「生」」
当たり前だが、人間は自ら望んで生まれてきたわけではなく、恐怖や辛さがあろうと、死が訪れるまでは「生きざるを得ない」という強制の中に留まり続ける。
6.「死」への恐怖と「世界」への恐怖
死ぬことが恐ろしいのか?それとも生きているこの世界や自分の存在そのものが恐ろしいのか?その境界すら曖昧なまま、日常の重みに押し潰されそうになる感覚は、論理や精神論で整理できるものではない。「死の恐怖を受け入れれば楽になる」「今を精一杯生きれば解決する」といった【小手先の答え】は、本当の意味で追い詰められている人間にとっては何の救いにもならず、かえって【そう思えない自分】を追い詰めてしまうのだ。
「言葉で人は救える」という前提そのものが、たぶん根本から間違っているのかもしれないが、言葉で救われることは実際に起こるのでなんとも言えない。
そもそも「生きる為、死んじゃいけない事への問いに対する正解」や「綺麗で優しい言葉」で人を救おうとする問いそのものが、破綻している場合は多いと感じる。
日常の小さな役割や欲求という「浅いレイヤー」で自我を固定出来る人と出来ない人
⓪発達心理学
フランクルと「意味の対立」
ヴィクトール・フランクル(ロゴセラピー)は、「人生に何を期待できるか(自分が何者になれるか)」と問うこと自体が人間を病ませると言った。
①小さな大人(偽りの自己)
周囲の期待に応え、社会の理不尽や薄汚さに妥協し、自分の純粋な欲求を殺すことで「まともな大人」として機能している状態。
②純粋な魂(真の自己の暴走)
妥協や不純さを拒絶し、絶対的な純粋性や「理想の愛」「完全な世界」を求め続ける状態。
社会から見れば前者は「成熟」であり、後者は「困った人間」「未熟」と診断される。しかし、魂の純度という観点から見れば、前者は「死んだように生きている者」であり、後者は「純粋すぎるがゆえに現実に削られていく者」だと思う。
そして、「自分は特別だ」という妄想ではなく、「この不純な世界に対して、自分の魂の純度を下げることができない」という絶望的な不適応。つまりは、現実という汚濁を呑み込むことを、魂が激しく拒否しているのだと言えるのではないだろうか?
そこには、救いようのない絶望の中にある静かな矜持(プライド)が宿っている。
★まとめ★
生きることも、死を選ぶことも、どちらも同じだけの苦痛と切実さを引き受けた末の重重しい選択であり、そこに優劣も正邪もないはずだ。生き続ける者たちには「どれほど世界が理不尽で不純であろうと、今日までその重みを耐え抜き、呼吸を繋いできた」という事実そのものへの静かな全肯定を。そして死にゆく者たちには「もうこれ以上、不条理な痛みや虚無に耐えなくていい、すべての重荷から解放され、ただ静寂と安らぎへと還っていくのだ」という絶望の果ての救いの訪れを待つこと。
それでもなお辛いのであれば
もしあなたに確たる【美学】があるのならば、それを貫くしかない。生きるのが苦しい、死ぬのも辛いし【怖い】、生きるのも怖い、もしこの世に生きることが怖くない人が居たとしたら「自分の物語」を生きるのをやめた人であろう。決して「強いから怖くない」わけでなく、生と死を「同じ部屋のふたつの扉」として開けている人は、「守るべき自分」という幻影を最初から持っていないからこそ、何ものも脅かすことができない立場にいる。そんな生き方が出来れば、一時的に変われるかと思う。
「生きていても仕方ない」と自ら告白したとき、人ははじめて「何か価値があるから生きる」という偽りの前提から解放されるのだと信じたい。今回は、そんなことを自分に言い聞かせてみた。
