【創作論】小説家を目指すあなたへ —— 私は、小説に人生の全てを賭けなかった
先日書いた記事が、思いがけずたくさん読まれた。
読んでくれたのは、たぶん小説を書いている人たちだ。 頼もしいと思いながら、少し心配にもなった。 だから今日は、人生の後半に入った人間として、——または、小説家を志し、その末席に座ったことがある人間として、いちばん言いたいことを書く。
1. 思っていたより、たくさんの人が書いている
「小説の新人賞を受賞した、その後の話 —— 私は三ヶ月で、忘れられた」という記事を書いたところ、これまでにない数の人に読んでもらった。
驚いたのは数そのものよりも、その内訳のほうである。
読んでくれたのは、おそらく小説を書いている人たちだ。
新人賞に応募している人、これから応募しようとしている人、あるいはかつて応募していた人。私が思っていたよりずっと多くの人が、いま原稿と向き合っている。
頼もしいと思った。
そして同時に、少しだけ心配にもなったのである。
私はもう人生の後半を生きている。
子どもはとっくに大人だ。その位置から見えることを、今日は書いておきたい。
端的に言えば、人生は短い。
だから、保険を掛けておいたほうがいい、という戯言である。
2. 現実はやはり厳しい、という話
あなたが小説家になりたい気持ちは分かる。
その魅力もよく分かるし、努力すればいつか報われるだろうと考えていることも、諦めたくない気持ちも分かる。
私も同じ場所にいたからだ。
だが、それにしても現実は厳しいのである。
受賞することは、十分に難しい。もちろん不可能ではない。
問題はその先で、受賞したとしてもそれだけのことだ、というのは前の記事に書いた通りである。
では、小説だけで食べていくとなると、どうか。
調べてみて、まず分かったことがある。
小説家という職業の公的な統計は、存在しない。 賃金構造基本統計調査にあるのは「著述家、記者、編集者」という大きな括りだけで、小説家がその中に何人いるのかは誰にも分からないのだ。
そのうえで、いくつか言われている数字がある。
専業で生活している小説家は日本に二百人程度、という説がある。
ところがこれについて、ある作家がエッセイでそう書いたところ、編集者から「そんなにいないと思いますけど」と言われたそうだ。そこから逆算すると、百人から百五十人あたりではないか、と言われている。
一方で、新人賞などを通じて毎年二百人以上が新たにデビューしているとも言われる。
いずれも伝聞であり、正確な数字ではない。ただ、並べてみると分かることはあるだろう。毎年二百人が入ってくる場所に、席は百数十しかない、ということである。
3. これは、椅子取りゲームなのだ
どの世界にもピラミッドが存在する。
小説家として、プロとして、大成功している人——有名になり、金銭的にも恵まれている人は、二十から三十人くらいだろうか。
その周辺で何とかご飯を食べている人が二百人程度。
商業出版を経験して、お小遣い程度の収入を得ている人はかなり多いかもしれないが、それが何年続けられるのか、という問題もある。
スポーツを例にすると分かりやすいかもしれない。
大谷翔平クラスは世界に数名。
その周りにプロ野球のレギュラー陣がいて、さらにその周りにプロではあるけれど無名な選手がいる。そのまた外側に、プロになれなかった人たちの層がある。
そして、ピラミッドの頂点の席数は限られている。空きが出ない限り、次の人が座ることはできない。

つまり、過酷な椅子取りゲームなのである。
これは実力の話でも才能の話でもない。
構造の話だ。あなたにどれだけ才能があっても、椅子が空かなければ座れないのである。
4. 無理だと言いたいのではない。もったいないのだ
誤解しないでほしいのだが、私は「やめておけ」と言いたいのではない。
その過酷なゲームに自分の人生の全てを賭けるのは、もったいない、と言いたいのである。
無理とか無理じゃないとか、才能があるとかないとか、そういう話ではない。
単にもったいない。それに尽きるのだ。
小説を書くことがあなたの得意なことだったり、夢だったりするのは、素晴らしいことだ。
そこにはあなたの人生を豊かにする、重要なピースがある。それさえ見つからないまま終わる人がいるのだから、誇っていいことなのである。
だが、それだけでは足りない。
この際、したたかに生きようではないか。
だから私は、保険を掛けておいたほうがいいと言うのである。
5. 私が掛けてきた保険の話
偉そうに書いてきたが、これは助言というより、私の実例である。
私は本業を持ちながら書いてきた。
若い頃からずっとそうだった。小説だけで食べていこうと考えたことは、正直なところ、一度もない(いや、生活を維持するためにも、家族の手前もそうせざるを得なかった)
そして結果として、そのことに助けられている。
仕事がうまくいかないときは、家族との時間に逃げる。
家族との関係が不穏なときは、仕事や趣味に気持ちを持っていく。小説が書けないときは、その両方に逃げる。
もちろん小説を書くことに助けられたことは、何度もある。
つまり、どれか一つが倒れても、残りが立っていてくれる。
いま振り返ると、仕事も、家庭も、伴侶との関係も、おおむね楽しくいっているように思う。
もちろん、うまくいかないことは常にある。ただ、全部が同時に倒れたことはない。互いに補完関係にあるからだ。
もし私が小説一本に全部を賭けていたら、どうなっていただろうか。
十年落ち続けた時期がある。
受賞したあと、三ヶ月で忘れられた経験もした。
あのとき小説しか持っていなかったら、私はたぶん壊れていた。
保険が効いた、というのはそういう意味である。
6. 保険は、何でもいい
では何を保険にすればいいのか。
この際、何でもいい、と考えるのはどうだろう。
文章関係であれば、小説のジャンルを広げてもいいし、エッセイでもビジネス書でも体験談でも旅行記でもいい。料理が好きならレシピもある。
あなたの興味関心、仕事に関係することは、全部が保険になり得る。
文章と関係のないところでもいい。
スポーツ、旅行、音楽、収集、観察。家族を大切にすることも、友人づきあいも、仕事を変えることも、副業を始めることも、そうだ。
ぼんやり考えごとをして過ごすのだって、立派に人生を豊かにする。
要は、あなたが楽しいこと、将来楽しくなりそうなこと、豊かになるためのことなら何でもいいのである。
しかも、保険を掛けていることを、誰かに言う必要はない。あなたの心の動くままにひっそりと始めればいい(既にあるものをそう位置づけるでも良い)。
誰にも知られなくていい。宣言する必要もない。
自分の中だけで、別の方法で自分を幸せにする道を用意しておく。考えておくのはタダだし、少し試してみるのも、それほど時間はかからないだろう。
そして幸いなことに、そうした経験は全て、小説に戻ってくるのである。
7. 保険のつもりだったものが、本体になるかもしれない。
ここまで、保険という言葉を使ってきたが、実際にはそんなに整理された話ではない。
私にとって、本業は最初、書くための足場のつもりだった。生活を支えるためのもの。小説が本体で、そちらは備えのはずだった。
ところが長くやっているうちに、順番が分からなくなった。
いま私は、本業のほうにも十分な意味を感じている。
そこで得たものが小説に流れ込み、小説で考えたことが本業に返ってくる。どちらが本体でどちらが保険なのか、もう言えないのである。
そうなったら、保険だろうが何だろうが、どうでもいいではないか。
つまり保険を掛けることは、夢を薄めることではないのだ。
人生に柱を増やすことだ。柱が二本になれば、片方が折れても立っていられる。そして稀に、増やしたほうの柱が、思いがけず太くなることがある。
あなたが小説を書き、小説で成功したいと願うのは、幸せになるためだろう。
すなわち、小説は手段だったはずだ。
目的と手段を、混同しないでほしい。
幸せになる方法は、他にもいくらでもある。
したたかに、二本目の柱を立てながら、それでも書き続けて欲しい。そして、その方が人生も小説も豊かになるはずなのだ。
もちろん、これは私の戯言だ。人生の後半にさしかかり、小説家の末席に座ったことがある、それだけの者の意見である。
