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この人生の、主人公は誰?

生きづらさの最中に在る人は、自分自身を低く低く見積もります。

自分はなんて無価値な存在なんだ、と自分で自分にダメ出しをして、責めて責めて、過小評価するのです。

自分が自分に下した過小な評価が、そのまま外に現れて、自信無さ気に見える人も居れば、
反動形成で、他者に対して豪胆、傲慢な態度を取る人も在り、
更には抱える無価値感を覆い隠す為に、攻撃的になる場合もあって、

現れ方は様々ですが、その人を、
自信無さ気にさせているのも、
傲慢にさせているのも、
攻撃的にさせるのも、
心の奥底に横たわる、無価値感、です。

では、その無価値感はどうやってその人の心の奥底に巣食ってしまったのでしょうか?

それは、余程のレアケースを除いては、
その人の、幼少期の親子関係、に原因がある、と言い切ってしまっても構わないと私は思っています。

無価値感に苛まれる人は、幼かった日々に、決して一人の人として尊重されることの無い親子関係に身を置かざるを得なかったのです。

子どもは、生まれ落ちる環境や親を選ぶことが出来ません。

どんなに過酷な環境に生まれても、
決して人として尊重されることが無くても、子は親を慕います。

親が無くては幼い子どもは生きることが出来ません。
余りにも無力で、余りにも儚い生命としてこの世に生を受けた子どもは、
親を慕って慕って、慕い抜くことで生きる建て付けになっています。

それは、大いなる自然の理、です。

本来ならば、子が親を慕い、親が子に愛を注ぐことで親子関係はあたたかな場所になります。

しかし、愛を注ぐことが出来ない親も少なからず居るのです。


分類学上、人間は、動物界脊椎動物門哺乳網霊長目ヒト科ヒト属ホモサピエンス、に分類されます。
もっとも分類したのはヒト自身であり、霊長、と名付けたのもヒトです。

霊長とは、
霊妙な力をそなえていて他の、かしら、であること、
を意味します。

霊妙とは、
人知で測り知れないほど優れていること、神秘的な尊さを備えていること、
を言います。

分類学上の分類通りであるならば、神秘的な尊さを備えた存在である筈の、ヒト、の親が、
我が子を一人の人として尊重することが出来ず、愛を注ぐことが出来ないことは、
大いなる自然の理、というプログラムの中の、あってはならないバグではないのか、と思ってしまいます。

神が生きとし生けるものを創りたもうた、とするならば、
神秘的な尊さを備えていて然るべき、ヒト、で在りながら、
我が子に愛を注ぐことが出来ない親が、決して少なく無いという事実は、
創造主にして、最大の誤算、だったのではないかとすら思えます。

子は、大いなる自然の理、に従って親を慕います。
けれども愛を注ぐことが出来ない親は、
自然の理を逆手に取って、慕う我が子を支配します。

愛を注ぐことが出来ない親にとって、我が子が自分を慕って止まない姿は、愛おしい小さな生命、には見えません。
愛が無いからそう見て取ることが出来ません。
だから自然の理を逆手に取ります。

この子は私のもの、と見て取ります。
自分の所有物である、と認識します。
私のもの、なのだから好きに扱って構わない、と判断します。

子が自分を慕って止まない姿を、愛すべき守るべき存在、では無く、
好きに扱って構わない、無抵抗で絶対服従の存在、だと見て取って支配します。

所有物と見做した時点で既に、一人の人として尊重することは無い訳です。

親は自分の人生に子を取り込みます。
子は自分の人生を歩むことが出来ません。
親が主人公の、親の人生に取り込まれ、子は永遠の脇役として親を引き立て続けます。

だから子は自分を無価値に感じます。
無理も無いことです。


人として生まれて来たのに、一人の人として尊重されず、
親の所有物として扱われるのですから、
自分には価値が無い、という感じ方をする様になってしまうのは当然の結果です。

生まれたその時から所有物として扱われ、今日も明日も明後日も、それはずっと続くのです。

ある日突然、無価値な扱いを受ける様になったならその子は抗うでしょう。
自分は無価値では無い、と主張することでしょう。

けれども、本来ならば愛を注いでくれる筈の親が、生まれたその時から無価値な扱いをしたならば、
その子は自分を無価値な存在だと思い込みます。

思い込んでいるのですから、自分が無価値な存在であることは、その子にとっては動かし難い真実の様に感じられます。

それがその子の心の奥底に巣食う、無価値感であり、生きづらさの正体です。

生きづらいなら強くならなきゃいけない、
成功体験を積み重ねて自信をつけて行くしかない、
誰だって最初は自信が無い、でも皆んな頑張って自信をつけて行くんだ、
生きづらいなんて只の、甘え、だよ。

そう言う人がいます。

基本的には正しいと思います。

しかしそれは、生まれてからずっと一人の人として尊重されたことが無い人には当てはまらないこと、だと私には思えます。

自分を無価値だと思い込んでいる人に、成功体験は積み上がらないのです。

成功しても、たまたまそうなった様に感じられます。
何かに取り組んで素晴らしい成果をあげて尚、偶然そうなった、と感じます。
マグレだ、と感じるのです。

無価値感に苛まれる人が表に出す表現は様々です。
先に触れました様に、
自信無さ気だったり、
傲慢だったり、
攻撃的になったり、様々です。

様々であっても、どの表現パターンを取ったにしても、心の奥底には無価値感が巣食っています。

自信の無さがそのまま表出した場合は、過度な謙遜、として現れます。
成功して、スゴいね!、と声を掛けられても、私なんか全然です、といったかたちで否定します。

逆に自信の無さの反動形成で、傲慢、豪胆、攻撃的になる場合、虚勢を張ります。
周囲からは調子に乗っている様に思われる態度が目立ち、反感を買いがちです。
当然だよ!、君そんなことも出来ないの?、といった調子です。

両極端ではあっても、不適当な態度の原因は、心の奥底に巣食う、無価値感、です。

心の奥には既に、無価値感、が貼り付いていますから、成功体験は積み上がらず結果、自信を得ることが出来ません。

強く生きなければ…、
正しいでしょう。

成功体験を積み上げよ…、
その通りでしょう。

自信をつける為に頑張れ…、
真理だと思います。

けれどもそれは、一人の人として尊重されることの無い、過酷な幼少期を過ごし、
心に無価値感という大きな荷物を抱えていない場合に限られます。

生きづらい人は、無価値感という大きな荷物が邪魔をして、
心に成功体験を積み上げるスペースがありません。

だから先ず、
心の中の大きな荷物を取り除き、
成功体験を積み上げる為のスペースを確保することが先決です。


ではスペースを確保するには、どうしたら良いのでしょうか?


幼少期は人生に於いて唯一、無条件の受け容れを享受する特別な季節、と言えます。

親を慕った分だけ、愛を注がれます。

そうして子は注がれた愛に包まれ、
自分は愛される価値が有る、という揺るぎ無い確信を得るのです。


しかし、生きづらい人には、その大切で特別な季節はありませんでした。

だから自分には愛される価値が有る、という確信を得ることが出来ませんでした。

そればかりか、無価値感、という大きな荷物を抱かされました。

だから心には成功体験を積み上げるべき空きスペースがありません。

ネガティブが邪魔して、ポジティブが入る場所がありません。


スペースを確保するには、

惜しみ無く愛を注がれて然るべき大切で特別な季節に、
自分には一滴の愛の雫さえも与えられなかった、という残酷な真実から目を逸らすこと無く見定めます。

見定めたなら、その真実を受け容れます。

受け容れることが出来たなら、惨たらしい真実を踏み越えて生き抜いた自分の強さ、逞しさ、尊さ、が見えて来ます。

生まれて初めて見えて来ます。

生き抜いた自分は強い、と実感します。

生き抜いた自分は逞しい、と確信します。

生き抜いた自分は、無価値なんかでは無い、と腑に落ちます。

尊い存在であった、と思い出します。


愛を注がれる季節を生きた子は、

愛に抱かれて自分の価値を知りますが、

愛を注がれること無く、それでも生き抜いた子は、

残酷な真実を受け容れることで、

自分の価値を思い出します。

思い出したなら、

心に巣食う無価値感は、

溶けて流れます。

溶けて流れたら、その余白に、

ポジティブを敷き詰めて下さい。

成功体験は積み上がり、

自信が、勇気が、湧き上がります。

もう生きづらくなんかありません。

踏み出して下さい、

そこが、自分の人生、そして、

主人公は、自分、です。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム










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