子どもらしい子ども時代〜ユーミンの「やさしさに包まれたなら」を読み解く〜
子どもらしい子ども時代、を過ごすことが出来るか否かは、その人の後の人生に極めて大きな影響を及ぼします。
子どもらしい子ども時代、とは、
湧き上がる感情をそのまま感じ取り、
感じ取った感情をそのまま表現することが許される、特別な時代、であると考えます。
人生の責任は、自分自身に有ります。
責任、と言うと、何やら重たいものに感じられるかも知れませんが此れは、
その人の人生に起きる出来事も、湧き上がる感情も、全てがその人のもの、という意味を含みます。
楽しい体験も、苦しい経験も、
喜びも、悲しみも、
人生に起きる全てのことは、その人のものであり、
全てのことが、その人のものであるならば、
責任もまた全て、その人に有る、という意味です。
豊かな人生、とは、
これが私の人生、という実感を持って生きることだと思っています。
他人事の様に感じられる人生を豊かだと感じることは無い、と思うのです。
つまり、どれだけ自分の人生にコミットしたか、ということと、
人生を豊かに感じることは、正比例の関係性に在る、と思っています。
人生にコミットする時当然、全責任は他者に無く、その人自身にあります。
人生の責任はその人自身にあるのですが唯一、例外の時期、があります。
その例外とは、幼少期、です。
幼い子どもは、親が無くては生きることが出来ない無力な存在です。
だから、子は親を慕うことで幼少期を生きる建て付けに予めなっています。
つまり、幼少期に在る子どもは、全てを親に委ねて其の時期を生きる仕組みになっているのです。
本来ならば、慕う我が子を少なくとも肯定的に、出来うる限り無条件に、受け容れるのが親の役割りです。
肯定的に、無条件に受け容れられた子どもは、親が与えてくれる安心感に抱かれて、
自分には価値が有る、という感覚を育てます。
何かを為さなくても、自分はただ存在するだけで価値が有る、という根源的な感覚です。
その感覚を本記事では無価値感と対比する意味で、有価値感、と表現させて頂きます。
本来ならば親は子を肯定的に、無条件に受け容れますが、
親が、親になるに相応しい段階までの心の成熟を遂げていない場合、つまり親が、情緒未成熟な場合、
その親は、子を否定的に捉えます。
その親は、子に条件を突き付け、子が突き付けた条件を満たした時のみ、受け容れます。
突き付ける条件は、親の気分、好み、事情などで刻々と変わります。
子どもは、親を慕い全てを委ねていますから、親の顔色を覗い、刻々と変化する条件を読み取ることに全精力を注ぎ込みます。
条件を満たした時のみ受け容れられて、さもなくば否定され拒絶されるのですから、
その子は、自分の感情には目もくれず、親の感情を察知し、親の感情を優先します。
そんな幼少期に安心などありません。
あるのはとてつもない、不安、だけです。
親が突き付ける条件を満たせば、その時は受け容れられますが、次はどうなるかわかりません。
条件を満たせば受け容れられ、さもなくば否定され拒絶されるのです。
その刃物を突きつけられるかの様な冷たい関係性の中で、
安心感に抱かれることなど無く幼少期を過ごした其の子は、
条件を満たさないありのままの自分には価値が無い、と思い込みます。
その子は根源的な無価値感を心の奥に根付かせます。
親から肯定的に扱われた子、与えられる愛に条件など付かなかった子は、
安心感に抱かれて幼少期を過ごし、やがて、自分はそのままで価値が有る、という根源的な有価値感に背中を押され、自分の人生に歩み出します。
一方、情緒未成熟な親から否定的に扱われ、親から突き付けられる条件を満たせば受け容れられ、さもなくば否定され拒絶される、過酷な幼少期を過ごさざるを得なかった子は、
不安に苛まれながら、親の顔色を覗い、
条件を満たさなければ自分には価値など無い、という根源的な無価値感に追い立てられて、戦々恐々として条件を読み取り、条件を満たすことでやっと許されるという言わば、
親の条件を満たす為の機械の様になって、親の人生に取り込まれて幼少期を生きます。
根源的な無価値感は、時間が経てば自然と消えてしまう様なものではありません。
どこまでもその人を苦しめます。
人生は自分のものでは無く、親が主人公の親の人生であり、
その人は親の人生に取り込まれて脇役を務めているかの様な人生です。
人生にコミットすることが出来ません。
どうしても、脇役、なのです。
全てが、他人事、の様に感じられ、活き活きとした感覚が得られません。
松任谷由実さんが1974年に荒井由実名義でリリースした「やさしさに包まれたなら」という楽曲があります。
後に、映画「魔女の宅急便」のエンディングテーマ曲となって、より多くの方の耳に届いたことと思います。
一部を引用させて頂きます。
「やさしさに包まれたなら」
小さい頃は神様がいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持ちで目覚めた朝は
大人になっても奇蹟は起こるよ
カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目に写る全てのことはメッセージ…
この曲を耳にする度に、肯定的に無条件に受け容れられる幼少期は、何ものにも代えがたい宝物の様な季節なのだと感じます。
神様がいて夢を叶えてくれるとすら思えたのは、肯定的で無条件な受け容れが有ったからこそで、
成長して大人になって、人生の荒波に揉まれ、忙しさに忙殺される日々を過ごすうちに、
神様がいることも、夢が叶うことも、ともすれば忘れてしまいがちになりますが、
やさしい気持ちで目覚めることが出来た朝、ふとカーテンを開いて木漏れ陽が目に映った時、
かつて神様がいて、夢が叶うと信じることが出来ていた懐かしい肯定的な世界を思い出し、
やさしい眼差しで世界を眺めたら、世界はやさしいメッセージに溢れている、
そんな意味に感じます。
誰しもが、心がささくれ立つことはありますが、
限り無く肯定的で、無条件に受け容れられる幼少期のやさしい思い出は、
心の根っこでその人を支えます。
根源的な有価値感に背中を押される人は、ささくれ立った心を自然治癒させることが出来ます。
否定的な扱いを受け、受け容れに条件を付けられる過酷な幼少期を過ごした人には、やさしい思い出がありません。
心の根っこに支えは無くて、根源的な無価値感が横たわっています。
小さい頃には既にささくれ立っていた心は、生きれば生きる程に益々ささくれ立ちます。
やさしい思い出も、神様も、夢も、その人にはありません。
やさしい気持ちで目覚める朝も無ければ、目に映るすべてのことがメッセージを送っても、その人が気がつくことはありません。
ではそんな、過酷な幼少期を生き抜き、心に根源的な無価値感を抱えてしまった人が、無価値感を手放し目に映るすべてのものからメッセージを受け取ることは出来ないのでしょうか?
その人が抱えてしまった無価値感は、親が刷り込んだ、いわれのないもの、です。
情緒未成熟な親にとって、その人が自分として、自分の人生を生きるのは都合が悪いのです。
だから、条件付きの愛情、を言葉は悪いですが、餌、にして無価値感を刷り込み、
無価値感によってその人を縛りました。
情緒未成熟な親は未熟であるが故に、愛する能力が育っていない人、だったのです。
根源的な無価値感に苛まれているのならば先ず、
抱えている無価値感は単なる、思い込み、であることを腑に落とすことが必要です。
腑に落とすには、どうして親は受け容れに条件を付けたのか、を知る必要があります。
その為には過去を紐解き、
肯定的に受け容れられて然るべき季節に、
否定され拒絶された、という真実を見つめる必要があります。
否定され拒絶されたということは、愛されて然るべき季節に、愛されなかった、という真実を受け入れる、ということです。
根源的な無価値感を抱える人の多くは、
無価値感に耐えかねて、
今にも倒れそうになっても、
自分は充分に愛された、と言います。
意識の領域では、愛された、と思っていても、
無意識の領域では、親を疑っています。
親の恩に報いたい、と言いながら、
無意識の領域では、激しく怒っています。
ずっと永く、自分の感情に蓋をして、
親の感情を優先して来ました。
しかしもう、
根源的な無価値感に気がついたのなら、
認め難い真実を受け容れ、
無意識の領域に追いやった感情を解放し、
自分として自分の人生に歩み出す時です。
情緒未成熟な親は、
子の犠牲によって今日まで生きました。
犠牲になったのは、
無価値感に苛まれる其の人です。
痛みを伴いますが、
真実を受け容れた時、
やさしさに包まれて、
目に映るすべて、からのメッセージを、
初めて受け取る日が訪れます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
