キミの「できない」が、この世界を優しく回す
ここ3日ほど、小5の息子に怒ってばかりいる。
勉強もせずにグダグダして、どうやってゲームの時間を稼ぐかばかり考えている姿に、ついイライラしてしまうのだ。
やる前から
「やっても分からない」
「多すぎて終わらない」
「ただ面倒くさい」
そうやって負のエネルギーばかり放つ息子に、私は小言を重ねてしまう。
「今基礎をやっておかないと、中学に入ったら困るよ」
「勉強は知識を得るだけじゃなくて、考える力や、目的に向かって頑張る力を育てるためにやるんだよ」
「やらないままずっと嫌な気分で過ごすのと、ちょっと頑張ってやれた未来の自分と、どっちが気分がいい?」
「自分の人生は自分で作るんだよ。誰のせいにもできないからね。」
…言えば言うほど、抽象的で小難しい説教になっていく。
気づけばそれは、昔の自分に向けて言いたかった言葉であり、私の「こうあるべき」を押し付けているだけだった。
息子は小さくなって黙り込む。
たまに口を開けば、こちらの意図とはズレた言葉が返ってくる。
息子は言葉をそのまま文字通りに受け取るタイプで、会話の意図を汲み取るのが少し苦手なのだ。
例えば、今日もこんなことがあった。
子どもたちと「シロップかけ放題のかき氷を食べに行こう」と話していたときのこと。
何度も兄妹喧嘩をする彼らに「もう行くのをやめるよ!」と言い放ったあと、私はすぐに思い直してこう伝えた。
「ママは、かき氷を食べて笑顔になっている君たちが見たいんだよ。
かき氷を食べて笑顔になってくれる人〜?」
娘二人は素直に「ハーイ!」と答えたけれど、息子は違った。
「かき氷は食べたいけど、笑えない。もし笑えなかったら、どうするの?」 と真顔で言う。
“ 笑えなかったら食べられないの?” と言わんばかりに。
「ママはそういうことが言いたいんじゃないよ。あなたたちの喜ぶ姿が見たいから、一緒にかき氷を食べに行こうっていう意味なんだよ」
こういうすれ違いはよくある。
活字が苦手な息子は、言葉の幅に触れる機会が少ない。
昭和育ちの私も読書は苦手だったけれど、お茶の間で親と並んでテレビを見ながら、大人たちの言葉のニュアンスや行間をなんとなく感じ取って育ってきた気がする。
けれど今は、誰もがタブレットを手にする時代。
いらないと思えば指一本でスキップされ、アルゴリズムが差し出す狭い世界だけに囲まれていく。
なんとなく流れてくる「刺激」を、ただ右から左へ消費していく毎日……。
「自分の考えを持たずに、誰かの言葉をそのまま借りて生きていたら、あなたはいったい誰の人生を生きることになるの?」
あの頃の自分が思い出されて、胸の奥がざわっとして、 そのまま正論を垂れ流してしまう。 そりゃお互い嫌な気分にもなるよね、って話だ。
ここ最近、私は感情に流されすぎていた。
息子を納得させたい一心で、自分の言葉ばかりを押しつけていた。
「あぁ、一体幸せってなんだろう。
この子にとっての幸せって……」
*
グルグルと考えが空回りしたとき、私は、いつもスピリチュアルな視点に立ち返る。
そもそも私たちの肉体も、この目に見える世界も、ミクロで見ればただの素粒子の集まりだ。99.9%以上は隙間だらけで、実体なんてほとんど存在しない。
私たちが本当に生きているのは、外側の物質的な世界ではなく、結局のところ「感じる世界」なのだと思う。
勉強ができる・できないなんて、人生の幸せには関係ないことも本当は分かっている。
私たちは「幸せになりたい」のではなく、「幸せを感じたい」から生きている。
幸せは、何かを掴み取ったり、何者かになったり、誰かに認められたりすることで得られるものではない。
経済的な自由、誰もが羨む住まいや車、贅沢なグルメや旅行、そしてSNSを通して届くたくさんの賞賛。それらを手に入れる高揚感や満たされる気持ちはもちろん本物だ。
けれど、それを得られなかったら、私たちは幸せになれないのだろうか?
違う。
もう、誰もがそのことに気づいている。
本当の幸せとは、何かを得た先にあるのではなく、「 “今この瞬間に何を感じるか ” の中」にしかない。恐れや不足感を手放して、今ある心地よさに身をゆだねる。
どんな時も幸せを選択するのは自分次第。
幸せというものは、実はそれだけで十分なのだ。
息子が勉強できなくても、いい会社に入れなくても、どんな環境に置かれたとしても。 彼自身が「今、幸せを感じる力」——つまり日常の中での気づきと学びさえ培っていれば、どんな困難があってもそれは彼の人生のスパイスになり、より深く喜びにあふれた人生になるはずだ。
世の中は、人望があって賢い人だけで回っているわけじゃない。
現場を動かすためには、 体力のある人、忍耐強い人、思慮深い人、愛情深い人…。 言葉が少なくても静かに場を支えてくれる人がいて、 一つのことにしか集中できなくても、その一点が誰かの力になることもある。
障がいを持って生まれた子どもは、 その存在そのものが周りに気づきや学びを与えてくれる。
“欠けているように見える部分”が、実は誰かの心を動かす力になっている。
違いがあるからこそ、世界は調和して回っていく。
人の凸凹や偏り、そして不足。
その “欠け” が重なり合うからこそ流れが生まれ、世界は前へ進む。
不完全さや偏りや不足は、欠点ではなくエネルギーの源だ。完全に整った同じ形ばかりでは、動きは生まれない。 不完全であること自体が、もう完璧なのだ。
そこに優劣なんて存在しない。
だから、できないことがあってもいい。
そんな息子も、はじめから完全な存在なのだ。
できないことがダメなんだという世間のものさしで我が子を推し量るのは、心をすり減らすだけ。
……だとしても、グズグズしている息子を目の前に、 どうやって自分の心を落ち着かせようか、ってなるんだけどねw
結局それもこれも手放そうと思ってみても、 不安や心配がまた湧き出てくる。 それが親であり 人間ってことなのかな。
あはは、また思考がぐるぐるしてきた。
いいんだよね、消えなくても。
心がグラグラ揺れてもそのままでいい。
その葛藤から生まれる気づきこそが、親としての器を広げてくれるのだから。
息子の人生は完全だということだけ、静かに信じよう。
そうやって揺れ動く私の心を大きく成長させるために、もしかしたら息子がそんな役目を果たしてくれているのかもしれない…。
もっと柔軟に、もっと軽く。
気をもむ前に、自分の心をもみほぐすことにする。
心配する子育てではなく、 私自身が、そして子ども自身が幸せを見つけられる子育てを、ここからまた歩んでいこうと思う。
で、どうやってw?
ふふふ。
もっと心を遊ばせていこうじゃないか♪
不完全で愛おしい私たち親子の「遊びの時間」だ。
今回の記事は、#エッセイしりとり のバトンをいただきました♪
マイキーさん主催のこちらの企画です👇
◆バトンを下さったのは、「理想の育児」を手放して、親子で笑顔になるヒントを発信しているおもちさん。
試行錯誤しながらもお子さんと隣り合わせで歩む姿や、日常のあたたかな一コマが丁寧に綴られていて、読むたびに元気がもらえます。育児の悩みや不安にそっと寄り添ってくれる素敵な発信をされてますので、ぜひチェックしてみてください!
ということで、ちょうど今回書いていた記事がの重めの内容だったので、パーっと明るい記事で繋げなかったのですが、実は基本的にこういうジメジメしたことを考えて日常を送っていますw
カラッと眩しい晴天よりも、 しとしと雨が降っているほうが好きな Rんるんです。
ということで、私の記事のタイトルは「き」から始まりましたが、今度は「す」で始まるタイトルでつなぎたいと思います♪
✨そんな私から、次にバトンを渡すのは yamanakasanchi さんです♪✨
我が家はお見合い結婚なのですが、 カモフカさん(旦那様)とヤマナカさん(奥様)ご夫婦もお見合い結婚。
まさかの note 上で、 カモフカさん(旦那様)がヤマナカさん(奥様)の婚活記録の中に自分のことを見つけるところから、 二人で共同して note 運用が始まるという…… そのエピソードが面白すぎて、最初から一つも逃さず読ませてもらっている、 今もっとも熱いお二人ではないでしょうか(もちろん、お二人の LOVE の方もね)💕
もちろん、ムリにとは言いませんので、よろしければ、受け取って下さいね♬
初めての企画参加ありがとうございました😆🌈
