「生きているだけで価値があるから大丈夫」みたいな助言にムカついてしまう人へ——無価値感がある中、どう動き、どう働いていくか
継続的に働くこともできないし、豊かな人間関係もない。好きなことや興味のあることも特別ない。20代の間、ほとんどそういう生き方を私はしていた。
そんな頃、ぼうっとSNSを眺めていたら、こんな言葉が流れてきた。
「生きているだけで価値があるから、大丈夫」
誰かにとって大切な言葉なんだろうと思った。実際、その投稿には「救われました」「ほんとそうですよね」というコメントがたくさんついていた。
なのに私は、一人で苦しくなっていた。
なぜだろうと、しばらく画面を見つめて考えていた。
歯軋りが始まり、自責で手足が震える。
生きているだけで価値を感じられる人が羨ましいし、嫉妬しているし、ずるいと私は思ってしまった。こちらの勝手な想像だ。
私は、「生きているだけの自分」に、価値があると思えなかった。今まで散々失敗続きで、家でも職場でも罵声を浴びせられた経験ばかりだから。そういうこちらの文脈を無視して言われているようでムカついてしまった。
その相手に悪気がなく、こちらが勝手に穿った見方をしているだけなのもわかっているけれど、悔しかった。情けなかった。私こそ、相手の文脈を無視していただろう。
私は、条件付きの価値や愛しかわからなかった。
自分に価値なんか見出さなくていいと言う人もいるけれど、職場で何も成果も価値も生み出さずに、存在していられるわけがないと思う。
「無価値感」——自分の能力を過小評価したり、存在意義を否定したりする感情がずっと自分の中である。結局人生は、働かないと生きていけなくて、だから、価値を提供していかなければならないだろう。でも、どうにも私はそれができなかった。
無価値感を払拭するために、日常の些細なところで他者に親切にして、それを日記につけてみようと思ったときもあった。
ただ——続かない。
虚しくなってしまう。根底で誰かと比べてしまい、自分の矮小さをわざわざ確かめているような気分になる。深い劣等感があった。
私は結局、「生きているだけで価値がある」と言っている人に、私の苦しみの現実を認めさせたかったのだと思う。
これだけトラウマがあって、これだけ病気にかかって、これだけ不遇で、理不尽な出来事があって——だから、何もせずに価値があるなんて軽々しく言わないでくれと、その言葉が喉まで出かかる。
認めてもらったところで、解決にはならないことはわかっている。だけれど、すぐに自分が誰かの役に立つこともできないし、自己肯定感を上げることもできない。ゆっくりやっていけばいいと言われても、それすらできない。焦ってしまう。無価値感が膨れ上がって、涙が出る日もある。何もない。
無価値感が消えないままだった私は、仕事ではどこまで頑張ればいいかの基準が自分の中で持てず、「とにかく頑張る」という姿勢しか見せられなかった。自己否定が常に頭の中で走っているため、何に対してもうまく喜びを感じられない。常に他人に迷惑をかけていると思ってしまうし、実際そういう意識があるせいで動きが消極的になり、本当に大きな迷惑をかけてしまうことばかりだった。
そんな20代を過ごした私だったが、少しずつ変わっていった。
きっかけは、「自分のある習性」をルーティンワークにし始めたこと。
無価値感が消えたわけじゃない。自己肯定感が特別上がったわけでもない。ただ、以前は一日が終わるたびに「今日も何もできなかった」と思っていたのが、いつの頃からか、そう思う回数が減っていたのだ。
頑張りすぎて潰れることが、少なくなった。
他人と比べて落ち込む時間が、短くなった。
何かに失敗しても、以前ほど長く引きずらなくなった。
大きな変化ではない。でも、確実に何かが変わっていた。
精神疾患の症状が強い時期は、思考そのものがとても歪んでいることがある。私もそうだった。そういうときは、ここに書いてあることより、主治医の言葉を優先してほしい。ただ、少し症状が落ち着いて——「なんとなく動けそうだけど、長年自分の中に無価値感があり、継続して働くことが難しくて悩んでいる」という時期に読みにきてくれたなら、何かひとつ、手がかりになるものが渡せると考えている。
私が持っていた「習性」は、どんな人にでも取り入れられる。難しいことではない。今日からできることだ。これさえ携える意識があれば、無価値感は薄れ、働きやすい自分を構築する糸口が生まれるだろう。
私が持っていた「習性」とは
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