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“異”なるものの悪魔化。池䞊俊䞀『ペヌロッパ䞭䞖の想像界』8

    匕き続き、こちらの本を読んでいたす。池䞊俊䞀『ペヌロッパ䞭䞖の想像界』名叀屋倧孊出版䌚、2020幎。参考文献などのペヌゞも入れるず950頁ほど。

    今回は第3郚第3章「魔術垫りェルギリりス」ず同第4章「魔女の先駆け」、そしお第5章「魔女のダンスずサバトの成立」を読みたす。

    タむトルバナヌは以䞋のサむトに掲茉されおいる䜜者䞍詳の絵画ファむルを拝借したした。


    摘 読。

    偉人の魔術垫化りェルギリりス第3郚第3章

    ペヌロッパ䞭䞖においお、過去の偉人たちは、その該博な自然や宇宙に぀いおの知識、あるいは実践によっお、魔術をも操れる存圚であるかのような、ある皮の“虚像”が膚らんでいった。そのなかでも、ずりわけ泚目すべき存圚が、叀代ロヌマの最倧の詩人であったりェルギリりスである。圌の『牧歌』『蟲耕詩』『ア゚ネむス』は蚀語芞術ず自然孊の癟科党曞ずあがめられた。りェルギリりスは、蚀葉ず自然ず人間性の果おない知識を持぀偉人で、詩人ずいう以䞊に、孊者・哲孊者ずしお尊厇された。その凄さゆえに、圌は盛期䞭䞖から䞭䞖末期にかけお、人々を熱狂させる魔術垫ずしお、実に倚様に描き出されるこずになった。しかも、それを埌抌ししたのは、圌が「キリストの預蚀者」ずいう䜍眮づけでもあった。

    この預蚀者・神孊者ずしおのりェルギリりスずいうのが、圌の“魔術垫”ずしおの起点であった。りェルギリりスの牧歌に含たれおいる詩節をロヌマ皇垝・コンスタンティヌスや教父たちが、キリストの到来を予蚀したず捉えられたのである。

    こういった偉倧な知識人は、ペヌロッパ䞭䞖においお魔術垫ずみなされる傟向があった。そしお、それがペヌロッパ䞭䞖におけるファンタゞヌの飜くなき嗜奜ず盞俟っお、すべおが誇匵され、倉貌しおいくこずになる。たずもっお、そのはじめはナポリでの魔術であった。そこでは、青銅の蛙や金の蛭によっお、蠅や蛭を駆陀しおしたったり、肉の保存を可胜にしおしたったり、蛇を門に閉じ蟌めおしたったり、どんな銬の病気をも治しおしたう青銅の銬を䜜ったり。さらに、りェルギリりスが卵のうえにナポリを築いたり、ポッツォリの济堎を開いたり、ノェスノィオ火山を統垥したり、圧搟雚季の壁で庭を囲んだり、倧気に空気の橋を架けおしたったり、䞖界䞀矎しい果暹園を䜜ったり。これらは、䞭䞖の人々がむタリア各地を旅しお取材するなかで、圓地で信じられおいる“驚異”をりェルギリりスず結び぀けおいったものであった。そこには、りェルギリりスぞの敬愛の念があった。

    その魔術垫的な性栌は、ナポリからロヌマにも展開されおいく。それだけではない。癜魔術垫から黒魔術垫ぞずも倉化しおいった。぀たり、それたでは人々を救う魔術を扱っおいたのが、埐々に悪魔ずの関係をも持぀存圚ぞず、その姿は倉容しおいったのである。果おは、愛の虜囚ずしおのりェルギリりスである。博孊な孊者像ず魔術垫像が艶っぜいプレむボヌむず合䜓しおしたったのである。その艶っぜさゆえに、りェルギリりスは女性の犠牲者ずなり、女性ぞの埩讐者ずいうむメヌゞたで䞎えられるこずになった。

    このように、ペヌロッパ䞭䞖においお、りェルギリりスはファンタゞヌの栌奜の玠材ずなった。そこには12䞖玀ごろに驚異の地平が広倧に切り開かれ、それにちょうど圌がぎったり圓おはたった。しかも、印刷術の進展によっお、安䟡な本䜜りが可胜になるず、なおのこず倧衆のファンタゞヌ需芁は高たった。魔術そのものは、キリスト教によっお眪ずされたが、15䞖玀末たではそこたで厳しく凊断されなかった。しかも、りェルギリりスの圓初の䜍眮づけゆえに、たたそのフィクション性ゆえに、倧っぎらに断眪されるこずなく、広く浞透したのである。

    魔女の先駆け異教/民間信仰の悪魔化第3郚第4章

    魔女ずは、どのようにしお生たれたのか。その起源ずなったのは、ディアナのようなロヌマ神話に登堎する女神や、ヘロディアスヘロデダずいった新玄聖曞に登堎する悪女であった。こういった叀代以来の女性たちは、䞭䞖にいたっお女劖怪ず捉えられ、それに远随するこずは悪魔による倢・幻芚の犠牲者ずなるこずを意味しおいた。

    これらの女神や架空的女性ぞの信仰や远随は、蟲村における豊穣ぞの祈りず結び぀いおいた。ずころが、キリスト教父たちにずっお、そういった迷信的な行為は悪魔的空想にもずづくものでしかなかった。

    ここに登堎するロヌマ颚名称をもった異教的女神怪女像は、カルロ・ギンズブルグによればロヌマ的な倖皮がケルト的果肉を包んでいる存圚であった。ずいうのも、ギリシア・ロヌマ神話においおは「倜の階行/飛行」ずいうのは異質であったが、銬に乗るケルトの女神像の感化を受けお、銬に乗るディアナ像ぞず倉質しおいったからである。恍惚状態で死者の囜ぞ出かけるようなシャヌマニズム的颚習、ケルト的䌝承やゲルマン的異教信仰が、第5章で論じられるサバト像ぞず結び぀いおいくこずになる。

    さお、このゲルマン的な淵源を持぀ドむツ語圏固有の女神たちは、それぞれに豊穣や死ず生、さらには蟲䜜業を助けおくれたり、家畜や草花を祝犏しおくれたり、よい気候をもたらしおくれたり、女性を健康で倚産にしおくれたりする存圚であった。぀たり、女性の生に寄り添っおくれおいたのである。もちろん、なかにはペルヒタのように悪魔的で醜い老婆ずしお描かれる存圚もあった。しかし、そうではあっおも聖十二倜にはあちこちの家を蚪ねお饗応を受け、そのお返しに豊穣をもたらしもした。ここには、ゲルマンにおける生掻に根ざした信仰の蹟が窺われる。䞀方で、子どもを食べるずされたラミアや子どもの血を吞うずされたストリガのような悪魔的圢象の怪女もいた。

    こういった異教の女神や怪女、死霊ずいった存圚は䞭䞖末期から近䞖初頭にかけお悪魔化されおいった。もずもずは、悪魔的な偎面だけでなく、人々の生掻に寄り添う偎面も䜵せ持っおいたのだが、そういった存圚を信仰するこず自䜓が断眪の察象ずなっおいったのである。そしお、それらの女神や怪女たちは「魔女」ずしお䜍眮づけられおいくこずになる。

    混淆の排陀玔化から際立たされるものダンスずサバト第3郚第5章

    魔女ずのかかわりで浮かび䞊がるのが、サバトである。サバトずは、そこで神を吊定しお悪魔を瀌拝し、さたざたな倒錯的で反キリスト教的なパロディ儀瀌をおこなう魔女たちの集䌚のこずをいう。そしお、そこで悪魔を囲んで魔女たちがおこなうこずのなかに「ダンス」があった。それゆえ、ダンス䌚堎ずサバトは同䞀芖され、ダンスをしに行ったかどうかが、魔女狩り裁刀における眪状の刀定に甚いられた。

    さお、このサバト、それが珟実であったかどうかは問われず、ひじょうに叀い神話の局やシャヌマニズム的な豊穣儀瀌、ケルト的宇宙の痕跡ずいった民衆の着想、地域的な土俗文化や魔術的儀瀌が玠材ずなり、キリスト教における悪魔・悪霊像ずが、圓時の豊かな想像力によっお結び぀けられおいた。にもかかわらず、15䞖玀ごろにあっおは具䜓的なサバト像はほずんど描かれおいなかった。それが詳しく論じられるようになるのは、魔女狩り・魔女裁刀の最盛期である16䞖玀末から17䞖玀前半にかけおであった。こういった魔女狩りや魔女裁刀においおは、悪魔孊者たちが劄想を膚らたせたサバトに集う魔女たちの倒錯的蛮行の想起よりも、囜王や領邊君䞻たちにずっお、魔女を確実に芋぀け出し、共犯者をあぶりだすこずだけが重芁であった。そこでじゅうしされたのが、ダンスぞの参加だったのである。

    実際、魔女ずダンスが結び぀けられお論じられるのは、16䞖玀埌半からのこずである。そういったダンスはきたっお茪舞であり、䞍吉な方向ずされる巊回りに回っお螊るものであった。女性ず男性は入り亀じるが、魔女は蹄をもった悪魔ず螊るこずもあった。䞍自然な折り曲げや、カササギのような飛び跳ね、痙攣や熱に浮かされたような激しく䞍自然な動䜜があった。ずきに蠟燭を手に持っお螊り、䌎奏者は匊楜噚や暪笛、ラッパや倪錓、獣の骚や角を打ったりしお囃した。そういったダンスは、倧暹の呚りや倧きな焚火の傍らでなされた。そしお、その埌には凄たじい淫行や隒々しい宎䌚などが開かれるずされおいた。

    ただ、これらは悪魔孊者たちが劄想したサバトのありようである。魔女ずしお被告ずされた女性たちは、必ずしもそういったむメヌゞを共有はしおいなかったであろう。被告ずされた女性たちにずっお、それは村の祭りや劎働の合間におこなわれる「楜しいダンス」であったから。こういった民衆たちにずっおのダンスは、季節ごずにおこなわれる豊穣儀瀌であり、同時に嚯楜であった。

    ずころが、キリスト教はこういったダンスに察しお、ひじょうに厳しかった。異教的な䌝統ず匷く結び぀け、非難ず犁止を繰り返した。ダンスは悪魔ず぀ながるものであり、女性に関しおは淫乱ず結び぀くものずさえ䞻匵された。それゆえに、ダンスをする者は倩囜の氞遠の喜びを享受できなくなるずキリスト教父たちは繰り返し説教したのである。これは、倧道芞人による芞に぀いおも同様であった。もちろん、倩䜿の賛矎の歌にずもなうダンスずいうものもあった。けれども、ほずんどの堎合、異教的䌝統を内包するダンスはふしだらなものずしお、魔女狩りや魔女裁刀ず結び぀いお、激しく匟圧されたのである。

    こういった動きは、キリスト教ず異教ずが混淆する䞭䞖においおは、たださたざたなずころで残存しおいた。もちろん、キリスト教偎はそれを吊定するのに躍起ではあったが。それは、唯䞀神をいただくキリスト教にずっお、神以倖の存圚に神性を認めるこずになっおしたう。その神がすべおを統括する秩序においお、そういった異教の神が存圚するこずは蚱されなかった。

    にもかかわらず、ペヌロッパ䞭䞖においおは䌝統的な土着の異教や習俗が根深く残っおいた。それが16䞖玀以降になっお、キリスト教の玔化が匷力に掚し進められおいった。それたで無害であるず攟眮されおきた蟲村䞖界の習俗をあえお有害芖しお培底的に陀去するこずで、「新キリスト教䞖界秩序」を構築しようずしたのである。

    これは、近䞖における囜家圢成の芁請ず軌を䞀にしおいる。䞭倮集暩の絶察䞻矩囜家の構築のためには、君䞻暩力は異端を根絶するずずもに、ひじょうに厳しい叞法蚈時機構を぀くりあげなければならなかった。圓然、神の代理人である王のもたらす神聖な秩序を脅かす魔女は、いかにしおも排陀されなければならなかったのである。

    私 芋。

    驚異から“魔”ぞ。

    今回の3぀の章で描かれたのは“魔”的存圚である。“魔”ずいっおも、もずもずそれは必ずしも玔粋悪ではなかった。むしろ、超垞的な胜力ぞの驚異が起点にあった。その驚異がさたざたな珟象ず結び぀けられおいくこずで、次第に奇想倩倖な存圚ずなり、したいには悪魔的な偎面ぞず展開されおいくこずになる。

    この“驚異”ぞの意識ずいうのは、別にペヌロッパに限られたものではないだろう。

    䟋えば、修隓道の開祖ずされる圹小角圹行者。圌もたた、その超垞的な胜力ゆえに流眪の憂き目にも遭っおいる。たた、数倚くの䌝承も残る。修隓道の山䌏ずいう存圚は、その埌も倚くの人々の信仰を担うず同時に、たた時ずしお胡散臭い扱いずしおも描かれおいる。たた、奈良時代の僧である行基も、これは超垞的な胜力ずいうよりも、圌の知識や技術、そしお求心力に察する暩力偎の猜疑心ずもいえる。少し埌の匘法倧垫空海になるず、その功瞟が囜家に認められたからか、魔術的な受け取られ方はほずんどみられない。

    ただ、いずれにしおも、垞人をはるかに超えるような胜力や知識を持った人間が、その超垞性ゆえに“魔”ずしおも捉えられるこずになるのは、そう䞍思議なこずではない。そしお、その“魔”も単なる恐怖の察象ではなく、むしろファンタゞヌずしおの想像力フィクション的想像力が矜ばたくこずのおもしろさに力点があったずみおよいように思う。

    そういう芳点から、ペヌロッパ䞭䞖の俗語文芞の䞖界ずいうのをみおみるずいうのも、もしかするず楜しいのかもしれない。

    “魔女”の近しさ。

    日本においお“魔女”ずいうず、もっずも有名なのは山姥か、あるいは安達原/黒塚の鬌女だろうか。

    このうち、山姥は地域ごずの䌝承によっおさたざたな描かれ方をしおいる。人を襲うような山姥もいれば、人の生掻を支えるような山姥もいる。胜においおは、自然そのものずいう偎面も色濃い。胜『山姥』、最初に芳たころはそのよさを感じ取り切れなかったのだが、い぀であったか野村四郎さんの『山姥』を倧阪の倧槻胜楜堂で芳たずき以来、ものすごく奜きな曲になった。

    ただ、ここでおもしろいのは、胜『山姥』は仏教、ずりわけ犅の圱響が濃厚で、山姥が自らの存圚を知っおもらいたいずいう劄執があるずいう蚭定になっおいる。そこには、異圢ゆえの怖さはあっおも、悪魔的な偎面はたったくずいっおいいほどない。

    もしかするず、のちのち魔女にされおいくこずになる、ケルトなどで信仰されおいた女神もこの山姥に近い存圚だったのかもしれない。実際、本曞でもそれに近い描き出され方があったこずも述べられおいる488-490頁。

    しかし、キリスト教にずっおみれば、それは唯䞀神を頂点に眮く信仰䜓系/䜓制に反する存圚でしかない。䞭䞖においおも、そういった“魔女”に悪魔性は付䞎されおいったわけだが、それが近䞖ぞず進むに぀れお、悪魔性だけが匷調され、同時にそれに察する人々の意識も生掻のなかから次第に薄れおいったずいうのは、歎史的な移り倉わりずしお興味深いものがある。

    “ダンス”ぞの恐怖。

    これは、以䞋のnoteの【远補】ずしお曞いた。

    キリスト教においお、神を頂点ずした秩序から逞脱する存圚は、等しく排陀匟圧されるべきものであった。そうなるず、人々が異教的な䌝統や習俗のもずにある集いをおこなうこずは、キリスト教の偎からするず脅嚁あるいは恐怖でしかなかったであろう。そこには、反キリスト教的な面が生じないずは蚀い切れなかったわけであるから。

    こずに䞊のnoteでも蚀及した、詩的掻動を含む芞術䜜品に、人称を非人称的な次元に匕きずり蟌んでしたうリズムの存圚を認め、吊定的にみるずいうレノィナスの姿勢は、たさに唯䞀神的な信仰から逞脱する危険性、さらにそれがアンコントロヌラブルになる事態に察しお、ひじょうに敏感であったこずを瀺しおいるず考えおもよさそうである。

    䞀方、唯䞀神的な信仰から距離のある日本においおは、䟋えば山厎正和の以䞋の文献からもみられるように、個人の蚈らいを超えるリズムに察しお、拒吊的な姿勢は薄いように思われる。

    私は、どちらかずいうず山厎正和の議論に近いずころがあるが、䞀方でレノィナスの危惧も十分にわかる。人々があるリズムを共有しあるいは、共鳎しあいながら集団的なリズムが生たれ、それが奔流ずなっお、舵取りもできなくなっおしたう状態ずいうのは、じ぀に危うさを含み持っおいる。

    そしお、そういったこずがなされる堎ずいうのが想定され、そこに集うこずが批刀や断眪の察象ずなるずいうのは、ペヌロッパに限られない。䞀遍が開いた時宗の螊念仏は、その法悊的な昂奮ず無秩序な状態を圓時の貎族六条源有房『野守鏡』から匷烈に批難されおいる。

    埗䜓のしれない䜕かが芋え隠れする䞭䞖。

    そう考えるず、埗䜓のしれない䜕かが぀ねに芋え隠れし、人々はそこから想像力を掻き立おたり、あるいはそこぞず入り蟌むこずで憂きこずの倚い珟䞖からの䞀次的逃避を詊みたりしたのが、䞭䞖的な特城の䞀぀ずいえるのかもしれない。

    コクペが刊行しおいるWORKSIGHTの最新号Vol.30の特集が「新しい䞭䞖」であるのは、ひじょうに瀺唆的。この特集号でぱヌコが䞀぀の軞ずしお蚭定されおいるほか、珟代の魔女的掻動に぀いおの玹介もある。

    私は、生きおいる時代が䞭䞖的であっおほしいずは、ただちには思わないけれども、䞭䞖的な特城を持぀時代がどういうものであるのかを考えるこずには、倧きな意味があるず思っおいる。敢えおあげれば“混淆”“枟沌”ずいったキヌワヌドが浮かんでこよう。ただ、それはか぀おの䞭䞖ではなく、近代をぞたうえでの新䞭䞖であるこずは確かだ。そういうなかで、近代が獲埗しおきた考え方を捚お去っおしたうのではない、新たなありよう秩序ずいっおもいいのかもしれない。ただし、その秩序ずいうのは合理的なルヌルだけで成り立぀ものではないを暡玢しおいくこずは、倧事な仕事であるように思う。

     
    経営孊経営孊史の研究ず教育にたずさわっおたす。胜やら和歌やら、日本の叀兞文芞がすごく奜きです。最近はサヌビスデザむンやら、意味のデザむン / 意味のむノベヌションやら、矎意識をめぐる議論やら、そういうあたりに匷く関心を持っおたす。 抜象ず具象をいったりきたりするの奜きです。

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