第4話 44歳、夢中になれるものを見つけた日
50歳の節目に、36歳でパリに来た日から、46歳で刺繍職人になるまでを6話の物語にしました。普通の日本人女性が、自分らしい人生を見つけるまでの実話エッセイです。
第1話から第3話までは、
夢を失い、子どものいない人生を受け入れるまでを書いてきました。
第4話から物語は少しずつ違う景色へ向かいます。
1話から3話まではこちらからお読み頂けます。
子どものいない人生を受け入れた私は、
もう新しい夢を持つことはないと思っていた。毎日が穏やかなら、それで十分。
そう思っていた。
そんな私の人生を変えたのは、
パリではなく、日本で出会った一冊の本だった。
日本へ帰国して間もなく、世界はコロナ禍に入った。フランスへ戻る予定は何度も延期になり、日本で暮らす日々が続いた。
有難くご縁を頂いて会社で働き始めることになり、少しずつ生活のリズムは戻っていく。
朝起きて仕事へ行く。
帰宅して食事をし、眠る。
同じ毎日が静かに繰り返されていた。
穏やかな毎日、それでも心のどこかに、
埋まらない空白が残っていた。
私はこれから、どう生きていけばいいのだろう。子どものいない人生を選び、日本へ戻ってきた。でも、その先の景色はまだ見えていなかった。
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あの頃の私は、刺繍という世界の存在すら知らなかった。ただ、これからの人生をどう生きるか、そればかりを考えていた。
もう「夫について行く人生」ではなく、自分で選び、自分の足で歩く人生を送りたい。
そう思っているのに、どう最初の一歩を踏み出したら良いのかが分からなかった。
そんな頃、一冊の本に出会った。
そこには、こんな言葉が書かれていた。
「好きなことは何よりもモチベーションが生まれる自分の武器となる」
そのページを読んだまま、しばらく手が止まった。
好きなこと。
そう言われても、すぐには思い浮かばなかった。長い間、私は「お金にならないこと」を好きだと認めてこなかった。
仕事にならないなら意味がない。
役に立たないなら趣味で終わる。
そんな考えが、いつの間にか心の中に根を張っていた。
でも、本当は違った。
朝焼けや夕焼けの、
やわらかなパステルカラーを眺めること。
古い木造の家を見つけ、
「ここにはどんな家族が暮らしていたんだろう。」そんなことを想像すること。
そんな小さな「好き」も、大切にしていいのだと知った。
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本にはもう一つ、こんなことも書かれていた。
「毎日1時間、何もしないで考える時間を作る。」
私はその日から、仕事帰りに図書館へ立ち寄って1人で考える時間を作ったり、
大きな公園を歩きながら考えたりするようになった。
すぐに答えが見つかったわけではない。
それでも、自分に問い続けた。
私は何が好きなんだろう。
どんな時間なら、夢中になれるのだろう。
※この時読んでいたのは、
MBさんの「もっと幸せに働こう」という本でした。
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ある日、何気なく立ち寄った本屋で、一冊の本が目に留まった。
刺繍の本だった。
何の気なしに手に取り、ページをめくる。
その瞬間だった。
ページをめくる手が止まった。
胸の奥で、何か小さなものが動いた気がした。
それはアンティークショップで、
思いがけず心惹かれるティーカップを見つけたときのように、胸が高鳴った。
色とりどりの糸が描き出す世界。
繊細なのに自由で、どのページにも小さな物語があるように感じた。
「刺繍って、こんなに美しいものだったんだ。」
ページをめくるたびに胸が高鳴り、気がつけばその本を抱えてレジに並んでいた。
「やってみたい。」
ただ、それだけだった。
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その足で手芸店へ向かった。
刺繍枠。
リネンの布。
壁いっぱいに並んだ刺繍糸。
同じ赤でも少しずつ違う。
少し紫がかった赤
オレンジを含んだ赤
深く落ち着いた赤
同じ青にも、それぞれの表情がある。
空の様な青
海の様な青
その色の世界を眺めているだけで、胸が弾んだ。
仕事から帰ると、毎晩机に向かった。
布に針を刺し、一針ずつ糸を重ねていく。静かな部屋に、小さく糸を引く音だけが響く。
その時間だけは、不思議なくらい心が穏やかだった。将来の不安も、過去の後悔も、針を動かしている間は少し遠くへ離れていった。
夕方から始めたはずなのに、気づけば窓の外は真っ暗だった。時間を忘れるほど何かに夢中になったのは、いつ以来だろう。こんなに毎日集中できたことは今まであっただろうか。
上手になろうとは思わなかった。
誰かに見せようとも思わなかった。
ただ、楽しかった。
それだけで十分だった。
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振り返れば、人生はあの日、静かに動き始めていた。本屋で何気なく手に取った一冊の刺繍の本。
「やってみたい。」その小さな気持ちが、私を少しずつ別の景色へ連れて行った。
数年後、パリのオートクチュールの刺繍に携わることになるなんて、あの日の私は想像もしていなかった。
※表紙の写真は、44歳で初めて刺した頃のものです。樋口愉美子さんの本を参考に、一針ずつ夢中で刺していました。
