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💘『幸せを返品した女』



「こちらの幸せ、返品できますか?」


その一言で、店内の時間が止まった。


レジの青年は、バーコードリーダーを握ったまま瞬きをする。


「……はい?」

「だから、幸せです。返品したいんです」


水瀬千春、三十四歳。

ベージュのコートを着た彼女の腕には、大きな白い箱が抱えられていた。


箱には金色の文字で、

『幸福・三年保証』

と書かれている。


その店の名前は、『人生百貨店』

駅裏の細い路地に、夜だけ現れる不思議な店だった。


一階は「勇気売り場」。

二階は「恋愛用品」。

三階は「忘れ物と思い出売り場」。


そして地下には、

「幸せ売り場」

がある。




半年前、千春はここで幸せを買った。



仕事では後輩に追い抜かれ、五年間付き合った恋人にも振られた。

友人たちは結婚し、子どもが生まれ、家を買っていく。


SNSを開けば、


『何気ない毎日が一番の幸せ♡』


そんな言葉ばかりが目に入った。


「……じゃあ、私の毎日は何なんだろう」


そんな夜、千春は人生百貨店を見つけた。


地下にいた白髪の老人に、


「どんな幸せをお探しですか?」


と尋ねられ、千春は答えた。


「普通ので」

「普通?」

「仕事がそこそこうまくいって、誰かに愛されて、一緒にご飯を食べるような……普通の幸せです」


老人は笑った。


「一番難しい商品ですね」


そして渡されたのが、『幸福・三年保証』と書かれた白い箱だった。



「おいくらですか?」

「無料です」

「怪しいですね」

「幸せというものは、無料だからこそ、後から高くつくんですよ」


意味は分からなかった。

それでも千春は箱を持ち帰った。





すると翌日から、不思議なほど人生が変わった。



三年間ボツだった企画が採用され、給料が上がり、温泉旅行まで当たった。


そして――

悠真と出会った。

三十六歳。


優しくて、料理が上手で、千春の話をよく聞いてくれる人だった。


「今日は何食べたい?」

「何でもいい」

「じゃあ、千春の好きなオムライス」

「何でもいいって言ったのに」

「だから、千春が喜ぶもの」


そんなことを平然と言う人だった。


千春は、そんな悠真が好きになった。

半年後、悠真は指輪を差し出した。


「結婚しよう」


千春は泣いた。

ずっと欲しかった幸せだった。


二人分の歯ブラシ。

誰かと食べる夕飯。


「ただいま」

「おかえり」


それだけで嬉しかった。


――なのに。


ある朝、隣で眠る悠真を見て、千春は突然怖くなった。

この人を失ったら、私はどうなるのだろう。


病気になったら。

事故に遭ったら。

いつか心変わりしたら。


幸せが大きくなるほど、

失う未来が怖くなった。


そして千春は、幸せを数えるようになった。


笑った回数。

手をつないだ回数。

「好き」と言われた回数。


幸せなのに、

眠れなくなった。





だから千春は、人生百貨店へ戻ってきた。



「何も持っていなかった頃は、失うものもありませんでした。
 でも今は怖いんです」


千春は白い箱を差し出した。


「だから、返品します」


青年は静かに箱を受け取った。


ピッ。

レジから軽い音がした。

《幸福・返品完了》



その瞬間、スマホが震えた。



会社から企画中止の知らせ。

続いて、ボーナス取り消しの通知。


そして悠真から、

『ごめん。今日、会えない』

というメッセージ。


「……本当に全部なくなるんですか?」


青年は答えた。


「返品されましたから」



それから一か月。


千春の生活は静かになった。


仕事は平凡。

休日は一人。

冷蔵庫にはコンビニ弁当。

洗面台には一本だけの歯ブラシ。


怖くなかった。

もう失うものがないから。


なのに――



二人分のマグカップを出してしまう。

テレビを見て笑ったあと、隣を見てしまう。

そこには誰もいない。


その時、千春は初めて知った。

寂しさというものは、音がしない。


ただ少しずつ、

一人でいる部屋を広くしていく。


「こんなの……嫌だ」


千春は人生百貨店へ走った。





「返品した幸せを返してください!」


しかし青年は首を振る。


「返品された商品は返せません」

「だったら、新しい幸せをください」

「ありません」

「売り切れ?」

「いいえ。あなたに販売できる幸せは、最初からありません」


青年は、返品された白い箱を差し出した。


「開けてみてください」


千春が蓋を開ける。


中には――

何も入っていなかった。


「その箱は、最初から空です」

「じゃあ……仕事も、悠真も?」

「すべて、あなた自身が手に入れたものです」


青年は一枚の返品伝票を差し出した。


そこに書かれていた商品名を見て、千春は息を止めた。


返品したものは、

『幸福』ではなかった。


そこには――


『幸福を信じる権利』

と書かれていた。


「幸せそのものは、誰にも返品できません」

「でも悠真は消えた」


青年が微笑んだ。

「本当に?」



その瞬間、

店の扉が勢いよく開いた。


「千春!」


悠真だった。


「一か月も連絡無視して! 何してたんだよ!」

「だって、連絡が……」

「百回くらいした!」


千春はスマホを見る。

そして気づいた。


人生百貨店を出たあの日。

怖くなった自分自身が、


悠真をブロックしていた。



会社の企画も中止ではなく延期。

ボーナスも取り消しではなく振込日の変更。


幸せを返品したと思った千春が、

すべてを「不幸の証拠」に変えていただけだった。


「……幸せになるのが怖かった」


千春は泣いた。

悠真は笑った。


「俺だって怖いよ」

「え?」

「大切な人ができるって、そういうことじゃない?」


そして返品伝票を破った。



「幸せなんて返品できないよ」

「どうして?」


悠真は千春の手を握った。


「だって、まだ届いてないから」

「……え?」

「これから二人で作るんだろ?」


千春は泣きながら笑った。




二人が店を出たあと。



青年は破れた伝票を拾った。

そこには、小さな文字でもう一つの商品名が印刷されていた。


《本当に返品されたもの》

――幸せを失うことへの恐怖。


翌朝。

千春がもう一度路地を訪れると、人生百貨店は消えていた。


ただ地面に、一枚のレシートが落ちていた。

千春は拾い上げる。


そこには、

『幸せ ¥0』


そして、その下には――

『返品期限:あなたが幸せに気づくまで』


千春はしばらくその文字を見つめた。



そして、小さく笑った。


「……ずるい店」


レシートをポケットにしまう。



その時、


「千春ー!」


顔を上げると、通りの向こうで悠真が手を振っていた。

千春も手を振り返す。


そして、彼のもとへ走った。




幸せとは、

失わないことではない。


大切なものができれば、

失うことが怖くなる。


それでも。

怖いからと手放すのではなく、

怖いまま誰かの手を握る。


喧嘩して、

笑って、

時々泣いて、

「ただいま」と言って、

「おかえり」と返してもらう。


そんな何でもない日々を、

少しずつ積み重ねていく。


それがきっと、

幸せなのだ。





だから――


もし人生のどこかに、


「幸せを返品できる店」

があったとしても、

返品されるのは、

幸せそのものではない。



あなたがずっと胸の奥に抱えていた、

「いつか失うかもしれない」という恐怖のほうなのだ。


そして、

恐怖を手放したその両手には、


もう一度、

誰かの手を握るための場所が残る。


幸せとは、失わないことではない。

失うのが怖くても、

それでも大切にしたいと思えるものに出会うことなのだから。



千春は悠真の手を握った。


今度はもう、

幸せを返品しないためではない。



二人で、これからの幸せを作っていくために。







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